| −市民の必要が生んだ道− |
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御所は広い。特に何があると言うわけでもないけれど(こんなことを言うと宮内庁の人は眉をひそめるだろうけど)とにかく広い。京都の真ん中に、1辺が1km以上もある長方形の場所がデンとある。 だから、京都市内を自転車で走る場合には、御所の中を通り抜ければずいぶん近道になるということも多い。御所の周囲は高い塀でぐるりと囲われてはいるものの、いくつかの門からは自由に出入りすることが出来る。当然信号もないから、自転車で走り抜けるには都合がいい。 京都人の主な足は自転車である。京都という街は、坂が少なくて自転車で走りやすい上に、他の交通機関があまり便利とは言えないのだ。道路が狭いから車はすぐに渋滞するし、どこに行っても駐車場がない。市バスはノロノロと運行し、地下鉄は速いけれど東西と南北に一本ずつしか走っていない。 というわけで御所の中を通る自転車の数もけっこう多い。でも御所の内部というのは、一面に砂利が敷かれていてとても走りにくい。砂利道を自転車で走ったことのある人なら分かると思うけど、ちょっとしたハンドル操作でバランスを失ったり、一生懸命こいでも力がうまく地面に伝わらなかったりする。 そこで登場するのが「ごしょのみち」なのだ。「ごしょのみち」は何も整備された自転車道というわけではない。自然発生的に出来た「砂利のないゾーン」なのだ。草木の間を動物が通る間に「けものみち」が出来たように、ある場所を繰り返し自転車が通ることによって自然に道が出来たのだ。 僕の記憶では、少なくとも15年ぐらい前からこの道はあったし、おそらくもっと前からあったのだろう。もちろん他の場所にもこういった自然発生的な道ができることがある。でも、その規模と知名度を考えると「ごしょのみち」が抜きん出ているように思う。
簡単に言えば、どちらかが避けるのである。どちらが避けるのかというルールはもちろん決まってはいないから、一種の「チキンレース」のようなものが展開されることもある。昔のアメリカの青春映画で自動車を使って行われていた、先に避けた方が臆病者だというレースだ。 ただ「ごしょのみち」の場合は、臆病な人が避けるということではなく、図々しい人が最後まで避けないということが多い。中でもオバサン達は、まず自分から避けてくれない。避けるなんてことは、はなから彼女たちの頭にはないらしい。当然、オバサンを前方に発見したときには、僕が砂利ゾーンに自転車を入れることになる。 あるとき僕は「今度こそ、避けてやんないぞ」と決意して前方から来るオバサンに対峙した。そんな意地になることでもないんだけど、オバサンはどのあたりで避けるという行動に出るのか興味があったのだ。 もちろん、オバサンはいつものように悠然と進んでくる。僕と彼女の距離はどんどんと縮まってくる。 10m・・・(絶対譲らないからな。ぶつかっても構いやしない) 5m・・・(いや、ほんとにぶつかるぞ!) 3m・・・(おい、なんで避けない!) 結局、僕はぎりぎりところで砂利にエスケープした。僕が避けなければ、間違いなく衝突していた。恐るべしオバサン。「我が道を行く」という言葉は、きっと彼女のためにあるのだ。 そんな強情なオバサンも通るけど、僕は「ごしょのみち」を走ることが好きだ。 僕が「ごしょにみち」にひかれるのは、この道が「必要であるから出来た」という極めてシンプルな由来で誕生したからだと思う。みんなが通るからだんだん平らになる。平らになるからみんなが通る。これ以上シンプルな道は他に見当たらない。維持するのにもお金は要らないのだ。 年度末になると、予算の都合とかなんとか言って無意味にアスファルトを掘じくり返し、埋めた後が前よりデコボコになっているような道路も沢山ある。そういう道路と「ごしょのみち」を比べると、一体どっちが本物のみちなのだろうか、と考えてしまう。 |
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