京都は狭い平地であるうえに、大都市に見られるような高層ビルなどはほとんど立っていない。景観を守るために高層建築が厳しく規制されているためだ。
だから少し開けた場所や高台に登ると、市内のどこからでも京都タワーを見ることが出来る。ろうそくを模して造られたという京都タワーのシルエットは、とにかくやたらと目立つ。
京都を訪れたことのある人で、京都タワーを見たことがないという人は、まずいないだろう。京都の玄関口にデンとそびえ立っているから、いやでも目に入ってくる。そしてタワーを見れば「ああ、京都に来たんだな」と思う。
でも、それだけである。「じゃあ京都タワーに登ろうか」という人はほとんどいない。もしそういう変わった提案をする人がいたとしても、きっと同行者の賛同は得られない。「ふん」と鼻で笑われてしまうのがオチだ。
あるいは、あなたは「どこのタワーだって、そんなもんだよ」と言うかもしれない。東京タワーだって、通天閣だって、エッフェル塔だって、わざわざ登ろうとするのはみんな「お上りさん」ばかりだと。
確かにそうなのかもしれない。でも京都タワーの扱われ方というのは、他の多くのランドマークタワーとは根本的な部分で違っているように思う。
簡単に言えば、京都タワーは無視されているのだ。
京都人は京都タワーという存在を心のどこかで軽蔑し、疎ましく思っている。忘れたいと思っている。忘れたいと思っていても、何にしても目立つのだから意識には入ってくる。だから、うわべでは無関心を装う。タワーなどはじめから存在しないかのように。
京都タワーは異様な建物だ。その特徴的なシルエットは、塔というよりも銭湯の煙突の親玉のようでもあるし、作りかけのまま放置された宇宙テーマパークのようにも見える。誰がどんなセンスで作ったのかは分からないがひどく不格好であることは、京都市民の一致した意見だ。
パリのエッフェル塔が建てられた1889年当時、伝統を重んじるパリ市民の間からは抗議の声が殺到したという。斬新なものというのは、最初は受け入れ難いものなのだ。しかしその後100年経ってみると、それはパリを代表する建築物の一つになり、すっかり街に馴染んでしまった。
京都タワーが建てられた1964年にも、たぶん京都の文化人から抗議の声が上がったことだろう(なかったとしたら驚くべきことだ)。だけど建設から36年が経った今でも、この高さ131mの塔はいっこうに京都の街に馴染んではいない。そしてこの先100年経ったとしても、京都を代表する建造物にはなれそうもない。
京都タワーには、東京タワーのような電波塔としての目的と機能美や、エッフェル塔のような産業革命を代表するような鉄骨美はない。通天閣のような大阪の下町独特の泥臭ささえもない。京都タワーというのは、要するにコンセプトというものが欠如している「空っぽの塔」なのだ。
「空っぽの塔」というのは、実のところ比喩的な意味だけではない。京都タワーは実際に空っぽなのだ。京都タワーのホームページの中の「タワーの構造について」という項目を見ると、『骨組は一切なく、うすい外被(殻)で力を受けとめ、全体をささえる構造で、飛行機や船、動物ではカニ、エビ等と同じ仕組みです』と書いてある。「カニやエビと同じ」という部分がなんだか可愛らしい。京都タワーが甲殻類に分類されるとは知らなかった。
でもここで重要なのは、京都タワーというのは建築方法からして「空っぽの塔」であったという事実だ。空っぽであることを前提として作られた塔だということだ。そう考えるとあの宿命的な安物臭さも納得が行く。何せ中身が空っぽなのだから、外見が間の抜けたように見えるのも仕方がないだろう。
京都タワーの恐るべき安物臭さ、チープさというのはその内部にまで深く浸透している。
京都で一番高いというのが売り物の展望台に登ってみると、やけに閑散としていることに驚く。これほど印象の薄い展望台というのも僕は見たことがない。東京タワーはお上りさんで溢れていたし、神戸タワーは恋人達で賑わっていた。通天閣にはビリケンさんがいる。しかし京都タワーには何もないのだ。
極めつけが、展望台を降りると現れる「京の街・通りゃんせ」と題された人形館だ。ここには京の歴史・風俗・名所をまるごと紹介(とパンフレットには書いてある)するために、金閣寺の模型だとか、舞妓さんの人形なんかが置いてある。
おそらく「京都ミニ観光」というつもりで作られたのだろうけれど、なにぶん作りがひどくちゃちなので、ここから京都の風物詩をヴァーチャル体験するというのはかなり無理があるように思う。マッチ棒ほどの大きさの人間が、一生懸命祇園祭の鉾を引いていても、祭の迫力はちっとも伝わってはこないし、プラモデルみたいな金閣寺を見るぐらいだった本物を見に行った方がずっと早い。
暗闇に置かれている坂本竜馬人形は、頼みもしないのにぺらぺらと喋り出すし、たんなる人形だと思っていたら微妙に口元が動いているので余計に不気味だ。当然のことながら、ここを訪れるお客さんは皆無と言ってもいい。
誤解してもらいたくないんだけど、僕は京都タワーをけなすつもりは毛頭ない。むしろ僕はこういうチープさが好きだと言ってもいい。とうの昔に時代から取り残されてしまったんだけど、だからといって「アンティーク」と呼ばれるほどの年月を経てもいない、そういう中途半端なチープな場所にいると、何故かわくわくしてくるのだ。
京都タワーは、なかなかお目にかかれないほどの上物のチープさにどっぷりと浸っている。所々塗装が剥げてしまっていて、もともとあった安っぽさに更に磨きがかかっているところなんかは、場末の遊園地を思い出させる。乗り物といえば一回転もしないジェットコースターしかなかったり、だれも見向きもしない「トンボの標本館」とかがひっそりとあったりする遊園地だ。
ただ残念なことに、こういうチープさを好んでやってくるような人は多数派ではない。みんなこの人形館の入り口をちらっと見ただけで「こりゃだめだ」と肩をすくめて帰ってしまう。
僕は帰っていく彼らの背中に向かって「そうじゃないんだ、このチープさこそ京都タワーの本質なんだ。京都の一等地にこんなに無駄なスペースがあること自体がミステリーじゃないか」と叫びたくなる。でもこういうのは僕の個人的な見方でしかない。時間の無駄だと足早に立ち去る彼らの方が賢明なのだろう。
チープさというのは決して利益と相容れることはない。ごく一部の物好きを除いて、京都タワーを二度訪れようというリピーターは存在しない。そうやって京都タワーは人々の記憶から失われていく。まるで密林の中でゆっくりと死に絶える巨大草食恐竜のように。
最近になって京都タワーの目の前に「京都駅ビル」という新名所が完成した。駅ビルの斬新なガラス張りの建物は、ことのほか評判がいい。京都に来た人は、まずこのモダンな玄関口で現代の京都を味わい、そして古都の名所に入っていくというコースが定番となりつつある。
駅ビルができて以来、京都タワーの存在はいっそう惨めなものになっているように思う。強力すぎるライバルの出現に、以前にも増して客足は遠のいている。タワーの地下にある土産物屋は、素晴らしい立地条件にもかかわらず修学旅行生すら寄り付かない有り様だし、起死回生を狙ったテナントが100円ショップだというのも、チープさに拍車をかけているだけだ。
「シャワー効果」という言葉がある。デパートなんかの大型小売店で、上の階にある催し物会場などで集めたお客さんを階下のフロアに送って、デパート全体の売り上げアップを狙う戦略のことだ。京都タワーのシャワーの蛇口は、固く閉められて錆び付いている。その蛇口からはもう二度と水が出ることはないだろう。
京都タワーが取り壊されるという話は聞かない。でも仮にそうなったとしても、誰も反対の声を上げたりはしないだろう。でも実際のところ、京都タワーは既に崩壊しているのだ。唯一の存在理由であった「高いところからの眺め」に誰も関心を払わなくなったときから、京都タワーには依って立つ土台が無い。ただの抜け殻なのだ。
彼はどこにも行けない。ただ滅びるのを待つだけの哀しい存在だ。空虚さの象徴として、京都タワーはいつまで立ち続けるのだろう。
今日も沢山の人が京都タワーの前を行き過ぎていく。でも、誰もタワーを見上げない。まるでそこには何も存在しないかのように。
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