2185 メガネを無くしたことに気付いたのは、ヤンゴンの安宿のベッドの上だった。しまった、と思ったときには、もう後の祭りだった。前日まで、僕はラオスのターケークという町にいた。そこから船でメコン川を渡ってタイに戻り、バンコク行きの夜行バスに半日揺られ、すぐに飛行機でミャンマーのヤンゴンに飛んだのだった。メガネはこの数百キロの移動ルートのどこか(たぶんラオスのホテルだろう)に置き去りになっているに違いないのだが、もちろん今更取りに戻るなんてことができるわけがなかった。

 僕は決して物持ちのいいほうではないから、旅の間は絶対に忘れ物をしないようにいつも心掛けていた。ホテルの部屋をチェックアウトする前は、ベッドの下を覗き込んで指差し確認までした。その甲斐あって、旅に出てからの二ヶ月間は、ボールペン一本たりとも無くさなかった。やればできるじゃないか、と少し気が緩んでいたら、このざまである。

 普段、僕はコンタクトレンズを着けているから、メガネは絶対に欠かせないものではない。だけど、一日中ずっとコンタクトで過ごすのは目に負担がかかるから、できることならこのヤンゴンで代わりのメガネを探したいところだった。
 しかし、ここは経済制裁の続く国ミャンマーである。首都ヤンゴンは思ったより大きな都会だったから、メガネ屋が一軒も無いという事はないだろうが、あったとしても、そこで手に入るのは「マハトマ・ガンディー風」黒縁フレームと、牛乳瓶の底みたいに分厚い「ガリ勉君」レンズの組み合わせぐらいかもしれない。まぁこの際だから、大江健三郎メガネでも、大橋巨泉メガネでも、無いよりはマシだけど。

 翌日、宿のオーナーにメガネ屋の場所を訊ねてみた。
「メガネのお店は、たくさんあるよ」
 とオーナーのピーさんは言った。彼は、何年か前まで日本に住んでいたらしく、流暢な日本語を話した。
「どうして、メガネ、欲しいの?」
「忘れてきたんですよ。ラオスに」
「ラオス? それは、とってもとっても遠いねー」
 彼は大変だねぇと笑いながらも、メガネ屋までの地図を丁寧に書いてくれた。

 

 

28ドルの激安メガネ

2803 ヤンゴンの中心部は、東西と南北の通りが直角に交差する碁盤の目状になっているから、初めてでも道に迷うことは少なかった。仮に迷ったとしても、その辺の人に尋ねれば、たいていの場合とても親切に教えてくれた。それどころか、地図を広げているだけで、向こうから「どこへ行きたいんだ?」と声を掛けてくることも少なくなかった。ミャンマー人はとにかく親切なのだ。

 しばらく歩くと、ピーさんの言った通り、メガネ屋がずらっと二十軒以上も並ぶ通りに出た。大きな店構えの専門店から、ゴザに安物っぽいメガネを並べて売る露天商まで、とにかくそこはメガネだらけだった。

 僕はメガネ屋街を一通り歩いてから、その中でもあか抜けた雰囲気の「Asia Optical」という店に入った。ショーケースの中に並んだフレームは、お洒落とは言えないまでも、ごく普通の華奢なデザイン――もちろんマハトマ・ガンディー風ではない――だった。どうやら僕の心配は杞憂だったようだ。

 店の中には若い売り子が数人いたが、僕がビルマ語が話せない外国人だとわかると、すぐに英語の話せる店主を奥から呼んできてくれた。店には機械式の視力検査装置が備わっていて、加工もすぐに出来るということだった。
「3時間後には出来上がりますから、午後に取りに来てください」と店主は言った。僕はかなりひどい近眼なので、以前にメガネを作ったときも、レンズを取り寄せる必要があるとかで、一週間も待たされた。それが3時間で出来るというのだから、「エクセレント」の一言である。残された問題は値段だけだ。

「えー、ドル払いですと・・・」店主はカシオの電卓をカタカタと叩いた。「28ドルですね」
「レンズも入れてですか?」
「ええ、フレームとレンズ合わせて、28ドルです」
 日本で買ったメガネは3万円はしたはずだから、そのわずか10分の1。信じられない安さである。外国人ということで、きっと高めに吹っ掛けられるだろうと、値切るつもりでいたのだが、そんな必要もなかった。

 午後に改めて店を訪れると、約束通りメガネは完成していた。日本で作ったものよりも、よく見えるような気さえする。
「ユー ルック グッド?」
 外国人の客を珍しがって、3,4人の若い女性店員が僕の周りを取り囲み、カタコトの英語で聞いてきた。
「ベリーグッド! あなた達が綺麗に見えますよ」
 僕も調子に乗って、軽口を叩いてしまった。早いし、安いし、品質も悪くない――ミャンマーのメガネ事情は、まず文句の付けようがなかった。

 

 

仏教の国ミャンマーの黄金信仰

 日本人の僕にとっては激安プライスのメガネも、ミャンマー人にはまだまだ高級品であるし、それほど多く需要があるわけではなさそうだった。メガネが必要なミャンマー人のうちの半数をお坊さんが占めているというのが、メガネ屋街を歩いてみた僕の感想である。パソコンもテレビゲームもほとんど普及していないこの国で、メガネをかける必要があるのは、暗い室内で経典を読む僧侶達ぐらいなのだろう。

 ミャンマー全土にいる僧侶の数は、30万人から100万人にも上るというが(本当の数字は誰も把握していないらしい)、ヤンゴンの街を歩けばその数字にも納得出来る。メガネ屋以外にも、市場、バス、食堂、アイスクリーム屋・・・とにかくどこにでも坊さんの姿がある。街頭で宝くじを売る店には、一等賞品の「三菱パジェロ」のキーを笑顔で受け取る中年の坊さんの写真が飾ってあったりもした。僧侶が宝くじを買うのは、仏教の教えに反するものではないらしい。

2158 南方上座部仏教の僧衣といえば、鮮やかなオレンジ色か、深いエンジ色と相場が決まっているのだが、ヤンゴンではそれ以外にも、薄桃色の僧衣を着たお坊さんを見かけることもあった。最初は少年僧だと思っていたのだけど、顔をよく見ると、それは年若い尼僧だった。まだあどけなさの残る表情と、つるりと青く剃られた頭、それに手に持った小さな日傘の取り合わせは、とてもキュートだった。カメラを向けると、彼女たちは恥ずかしそうにはにかみ、日傘で顔を隠してしまった。

 ヤンゴンの街でよく見かけるもののひとつに、貴金属店がある。金のネックレスや指輪を並べた店は、日が暮れる頃になると大勢のお客で賑わいを見せる。しかし、これがミャンマーの好景気を反映しているのかというと、実は全く逆で、人々は激しいインフレのせいで価値がすぐに下がってしまう通貨を、金製品という財産に変えているのだという。自国の通貨は全く信用されていないのだ。

 それでも、ミャンマー人が黄金に対して金銭的な価値以上の、特別な思い入れを持っているのは確かなようだ。それは仏教徒の心の拠り所であるパゴダ(仏塔)によく表れている。ヤンゴンにある「シュエダゴンパゴダ」は、高さ99mの塔を頂くミャンマー最大規模のパゴダだが、これは宗教施設というより「黄金のテーマパーク」と呼んだ方がいいような作りだった。

 表面が金箔で覆われているのはもちろん、最頂部に数千個(!)のダイヤを散りばめているという黄金の塔は、ミャンマー人の黄金好きを象徴する建築物である。このシンボルタワーを中心に、広い境内にはいくつかの祈祷堂があるのだが、黄金の石あり、ルビーの目を持つ仏像ありと、とにかく全てがキンキラなのだ。

 

2170 だけど、ここまで徹底した光りモノ攻勢を受けると、成金趣味のようで、かえって有り難みが薄れるような気がするのは、僕が日本人だからなのだろう。これ見よがしのピカピカの黄金よりも、古びて少しくすんでいたり、欠けたところがあるものの方を、僕ら日本人は「より本物らしい」と認識する傾向がある。日本における黄金寺院の代表といえば金閣寺だけど、あれだって京都の他の寺社と比べると、かなり浮いているように見える。

 しかし、日本の寺院や仏像が古来よりずっとくすんだ色だったかというと、そういうわけでもない。例えば日本における「見上げモノ」の代表格である奈良の大仏も、1250年前に建立された当時は全身に金メッキを施されていたし、今に伝わる国宝の仏像の中にも、かつては金箔で覆われていたものが多い。

 純金で鋳造された正真正銘の黄金仏でもない限り、表面の金箔は長い年月と共に剥がれ落ちていく。日本人はそれを放置し古びさせることをよしとし、ミャンマー人はせっせとお布施をし、新しい金箔を貼り直していく。
 パゴダの目くるめく黄金の輝きは、今もミャンマー人が祈る対象を求め、信仰と共に生きている証なのだ。

 南国の容赦のない太陽を反射して、目が痛くなるほどの強い輝きを放つパゴダ。焼け付く床石に正座して、一心に祈りを捧げる大勢の人々。この先訪れるミャンマー各地で、僕は同じような祈りの姿を、繰り返し目にすることになった。
 日々の暮らしと仏教が、しっかりと結びついている国。それがミャンマーだった。

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