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「ミャンマー人は世界一親切だ」
これまでに50カ国以上を旅してきたという、ドイツ人のバックパッカーが言った。一番であるかどうかは別にしても、ミャンマーが世界でも指折りの「親切大国」であるということに、異論を挟む人はいないろう。実際に僕もミャンマーを旅している間に、数え切れないほどの親切を受けた。
道を歩いていると、見知らぬ人がお茶を勧めてくる。自転車の鍵が開かなくてガチャガチャやっていると、お助けマンみたいな人がどこかから現れて開けてくれる。市場で写真を撮っていると、カメラバッグの口が開いているから閉めた方がいいですよ、とわざわざ注意してくれる。とにかく困った人を見ると(いや困っていない人でも)、手を差し伸べずにはいられない人々なのだ。
でも、その親切がときには裏目に出ることもある。僕がターズィのパゴダ祭りを目指したときも、本来なら10マイルあるところを「2マイルだ。自転車ですぐだよ」と言ってしまった医者も、騙すつもりは毛頭なかったはずだ。おそらく「日本から来ているこの旅人に、ぜひパゴダ祭りを見てもらいたい」という親切心から、ついつい近めに言ってしまったのだろう。
ミャンマーで道を尋ねるときに注意しなくてはいけないのは、この部分である。彼らはたとえ知らなくても「知らないよ」とは言わない。「確かあっちじゃなかったかなぁ・・・」という曖昧な記憶の糸をたぐり寄せて、「うん、間違いない。あっちだよ」と言ったりする。もちろん教えてもらった方は、何の疑いもなくその方向に歩き出すわけだけど、実際にはまるで逆方向だった、なんてことも珍しくないのだ。
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ターズィからピックアップに揺られて約1時間。メイッティーラという町でバス乗り場を探して歩いている時も、僕は重いバックパックを背負いながら、ミャンマー人のいい加減さに腹を立てていた。どうして彼らはひとこと「知らない」と言ってくれないのだろう、と思いながら。
僕はメイッティーラの町に泊まらずに、夜行バスでバゴーの町に移動するつもりだった。だからピックアップを降りてから、まず最初にバス乗り場を目指した。しかし、ミャンマーの田舎を走る長距離バスというのは、ちゃんとしたバスターミナルを構えているわけではなく、その辺の道路から発着しているので、初めて訪れた旅行者にはとてもわかり難い。もちろん英語の看板なんてものは出ていない。だから、道行く人に「バゴー行きのバスはどこから出ているんですか?」と尋ねて回ったのだが、ひとりひとりの指さす方向が見事なぐらいバラバラなのだった。それに従って右往左往していると、元の場所もわからなくなってしまった。
「コンニチハ ニホンジンデスカ?」
とカタコトの日本語で呼びかけられのは、雑貨屋の店先を通りかかった時だった。驚いて振り返ると、若いミャンマー人の女性が店の奥から顔を出した。
「アナタ・・・ドコ・・・イキマスカ?」
彼女はひとつひとつの単語を思い出すように、ゆっくりと言った。
「あなたは 日本語が 話せるの ですか?」僕も彼女と同じようにゆっくりと言った。
「スコシダケ・・・」
彼女はそう言って恥ずかしそうに笑うと、今度は英語に切り替えて、「何かお困りですか?」と尋ねた。
「バス乗り場を探しているのですが、見つからないんです」と僕が英語で説明すると、彼女は何度か頷いて、「マッテクダサイ」と言って店の奥に消えた。戻ってきた彼女の手には、赤い日傘が握られていた。僕をバス乗り場まで案内してくれるらしい。
「サア イキマショ!」彼女は笑顔で言った。
彼女の名前はウィンウィンニャットという。ショートカットにしたヘアスタイルと、くりくりっとした大きな瞳のせいで僕より年下にも見えたのだけど、実際には30歳で既に3人の子供の母親だった。彼女は日本のスズキが出資している自動車部品工場で、経理の仕事をしている。日本語が少し話せるのは、何年か前に日本人に習ったことがあるからだ、と彼女は言った。
「暑いでしょう?」と彼女は僕に日傘を差しかけてくれたが、真っ赤な傘に二人並んで入るというのは、なんだか照れ臭いものだった。15分ほど歩くと、電話機がひとつだけ置かれた殺風景な事務所に着いた。外見は他の民家と何ら変わりない建物である。これを自力で見つけるのは、まず不可能だろうと思った。
その事務所で今晩のバスを予約して、バックパックを預かってもらった。僕はウィンウィンニャットさんにここまで案内してくれたお礼を言ったが、彼女の親切はそれだけに留まらなかった。もしランチを済ませていないのなら、うちで食べていきませんか、と僕を誘ってくれたのだ。
親切を受けると、「これには何か裏があるんじゃないだろうか?」と疑ってしまうのは旅人の哀しい習性だけれど、その警戒心をすっかりなくしてしまうと旅人としては失格である。実際に親切を装って旅行者に近づいてくる怪しげな連中も少なくないからだ。でもミャンマーに限って言えば、そういう疑いはほとんど無用だった。
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ウィンウィンニャットさんは、彼女の両親と夫と三人の子供と一緒に住んでいた。一階の入り口は文房具や石鹸などの日用雑貨を売る店で、奥が食卓と調理場になっていた。一家が寝起きしているのは二階だった。
「二階の部屋を見せてもらってもいいですか?」と僕が訊ねると、彼女は「今は散らかっているから」と言って、階段をたったったっと上っていった。そして10分ほどドタバタとやった後、「上がってきて」と手招きした。その様子からすると、相当に散らかっていたらしい。
二階は4畳半ぐらいの小さな部屋が、縦に三つ繋がった作りになっていた。床は板張りで、一歩踏み出すたびにミシミシという大きな音がした。真ん中の部屋には小さな仏壇と、ナッ神に供える青バナナとココナッツの実があった。奥の部屋が夫婦と三人の子供の寝室であるらしく、二組の布団が部屋の隅に畳んで置いてあった。タンスの上には、変身ヒーローのゴム人形が5、6体並んでいた。
「何もないから、がっかりしたんじゃないですか?」
ウィンウィンニャットさんが僕に声を掛けた。確かに驚くようなものは、何ひとつ無かった。ものが少なくてがらんとしている点を除けば、日本の古い建て売り住宅とそう変わりがない。
急な階段、磨りガラスの窓、窓から差し込む塵の混じった粗い光。小学生の頃によく遊びに行った友達の家がちょうどこんな雰囲気だったな、と僕はふと思った。友達のお母さんが麦茶をお盆に載せて、階段から顔を覗かせそうな気がした。
「いいえ」と僕はウィンウィンニャットさんに言った。「ただ、少し懐かしいと思っていたんです」
昼食の後、マスオさん同居をしている夫のゾーラットさんが、バイクでナガヨン寺院に連れて行ってくれることになった。彼はレストランバーのステージでライブ演奏するキーボード奏者だった。「夜の仕事だから、昼間はいつも暇なんだよ」と彼は流暢な英語で言った。
ナガヨン寺院は第二次大戦中にこの地で死んだ兵士を弔うために、十数年前に日本人の協力で建てられたお寺だった。しかし外見は普通のミャンマー寺院と何ら変わりがなかった。お堂の中心には八体の仏像が円形に配置され、その仏像に向かって熱心に祈り続ける老婆や、ただ涼みに来ている男の姿があった。おそらくここにやってくる人々は、誰がこの寺を建てたのかなんてことは、あまり気にしていないのだろう。
僕はミャンマーの寺院を訪れたときにいつもするように、お堂の隅っこに座ってしばらく目を閉じた。吹き抜けていく風の中には、お香の匂いが混じっている。老婆のぶつぶつと唱えるお経の声が、遠くから響いてくる。
僕はひんやりとした壁にもたれかかって、その穏やかな時の流れの中にしばらく身を任せた。そして、50年前にこの土地にやってきて、ヒマワリしかないような乾いた土地を巡る戦いで命を落とした何万もの兵士のことを思い出した。
きっと僕の同い年、あるいはもっと若い兵士もたくさんいただろう。彼らは自分の意志とは無関係に連れてこられて、目の前の敵と戦って、そして死んでいったのだ。故郷からこんなにも離れた場所で。
どれだけそこに座っていただろうか。外で待っていたゾーラットさんが「大丈夫かい?」と声を掛けてきたとき、僕は少し眠っていたらしい。
「僕も時々、お寺に来て眠ってしまうことがあるよ」
彼は笑って言った。お堂の中には、老婆の唱えるお経の声が変わらぬ調子で響いていた。
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