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固い床の上に直に寝ていたわりには、熟睡していたようだった。
「よく眠っていましたよ。僕は6時に起きていたんですが、気が付かなかったでしょう?」
と部屋の主・マハーディ君はが目を覚ました僕を見て言った。
「6時?」
僕は驚いて聞き返した。
「ええ。朝の礼拝のために、僕は毎日6時には起きているんです」
さすがにホメイニ師の肖像写真を額に入れて飾っている男である。1日5回の礼拝はイスラムの基本だから欠かすことはない、と彼は言う。でも、早朝の礼拝まできっちり行っている学生は、この寮にもあまりいないらしい。
僕が起き出してしばらくすると、マハーディ君の友達が朝食を持ち寄って部屋に集まってきた。朝食は誰かの部屋に集まって食べるのが、この寮の習わしなのだ。インドのナンに似た薄っぺらいパンに、チーズとジャムを塗って食べる。もちろん甘いチャイも欠かすことはできない。
手早く朝食を済ませると、1限に授業のある学生は連れ立って大学に向かった。そして僕は授業のない学生達4人と一緒に、散歩がてら近くにある「ターゲ・ボスターン遺跡公園」に行くことになった。
「あなたが外国人だとわかると、トラブルになります」
学生寮の門を出る直前で、マハーディ君が僕に言った。学生IDを持っていない者が、勝手に大学の構内や寮に入り込んでいるのが守衛に見つかると、問題になるという。誰が入りこんでもお構いなしの日本の大学とは違うらしい。
「だからこのサングラスをかけて、しばらく黙っていてくださいね」
引率役のマハーディ君は、そう言って人差し指を唇にあてた。
「サングラス?」
「ほら、日本人はイラン人に比べて、目が小さいでしょう? だから目を隠せばあなたが日本人だってことは、ばれないですよ」
なるほど。確かにイラン人の顔は、東洋人に比べると目が大きく彫りが深い。パキスタン人やイラン人の濃い顔を見慣れてしまうと、ホテルの鏡に映る自分の顔があまりにも東洋人らしいことに、時々びっくりすることがある。
「でも、日本のアニメーションに出てくるキャラクターは、みんな目が大きいですよね。あれはどうしてですか?」
「さぁね。よくわからないけど、自分の目が小さいからこそ、願望を込めて大きく描くんじゃないかな」
学生達によれば、日本のアニメーションはイランでも放送されていて、絶大な人気を誇っているという。一番有名なのがサッカー漫画の「キャプテン翼」。これがサッカー好きのイラン人に支持されるというのは納得できる。意外なところでは「一休さん」。仏教寺の小坊主の話が、イスラム色の強いイランで広く受け入れられているというのは、かなり不思議なことのようにも思うのだけど。
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「ターゲ・ボスターン遺跡公園」はその名の通り、古い遺跡のある公園である。切り立った岩壁に、神々を象ったレリーフが彫り込まれている。これはササン朝ペルシャ、つまりペルシャ文明が世界に名を轟かせていた時代に刻まれたものだという話だったが、いかんせん二千年近く前のものなので、損傷も激しかった。学生達にしても、歴史遺産に特別な興味があるわけではなく、せっかく外国人が来たのだから名所のひとつにでも案内しなければ、と思った連れてきてくれたらしい。
遺跡はもうひとつだったけれど、隣接した庭園は見事だった。噴水があり、池があり、広々とした針葉樹の森があった。イランの町には庭園や公園が必ずひとつはあって、それが地元に住む人々の自慢の種にもなっていた。乾燥した砂漠の国イランでは、水や緑や花は「生命」や「豊かさ」の象徴なのだ。
僕らは池の前のベンチに座って話をした。「会話」というよりは、「質疑応答」といった方がいいかもしれない。
「あなたはカラテをやっていますか?」とか、
「オシンフィルム(連続ドラマ『おしん』のことだ)は本当にあった話ですか?」
といった定番の質問から始まって、
「日本ではポルノフィルムがテレビで流されているんですか?」とか、
「イシハラの『Noと言える日本』(イランでも話題になったらしい)をどう思いますか?」
といった質問まで、幅広く聞かれた。それにしても石原慎太郎がイランで読まれているとは知らなかった。
一番困ったのは、僕の大学時代について聞かれたときだった。
「メカニカル・エンジニアリング(機械工学)を勉強していたんだ」
と安易に言ってしまったのが、失敗の原因だった。彼らも工科大学の現役学生だということを、すっかり忘れていたのだ。
「僕もメカニカル・エンジニアリングを勉強しているんです」とジャマールという長身の男が目を輝かせて言った。「それじゃあ、この式を解いてみてください」
ジャマール君はポケットからメモ帳とペンを取りだして、さらさらと数式を書き付けた。
内心、しまったと思った。僕はまともに授業に出ていなかった上に、苦手科目が数学と物理という落ちこぼれ大学生だったのだ。当時だって解けないような問題が、卒業して何年も経った今、わかるはずがない。
「うーん、これは難しいねぇ・・・」
もっともらしく腕組みをして、僕はしばらく数式を睨んだ。初歩的な微分方程式だということはわかる。でもわかるのはそこまでで、解き方はちんぷんかんぷんである。公式がきれいさっぱり頭の中から抜け落ちているのだ。手の施しようのない末期ガンのレントゲン写真を見せつけられたような思いで、僕は首を振った。
「わからないんですか?」とジャマール君が言った。
「うん・・・全然わからない」
僕は正直に言った。数学は万国共通のものだから誤魔化しようがない。当然のことながら、イラン人だって日本人だってアメリカ人だって、同じ方程式を使っているのだ。
「こんなの簡単ですよ。方程式の基礎じゃないですか」
彼はそう言うと、すらすらと式を展開して答えを導いてみせた。でも、それを見せられたところで、僕の錆び付いた数学脳が蘇ることはない。その部分は既に死んでいるのだ。
「僕は数学が苦手な学生だったんだ。日本の学生みんながこうじゃない」
一応、日本の大学生の名誉のためにもフォローしておかないといけない。実際にそれは事実なのだから。
「あなたは本当にエンジニアだったんですか?」
ジャマール君は最後の追い打ちとばかりに言った。うーん、と僕は再びうなった。鋭い。あまりにも鋭い質問なのでぐうの音も出ない。ゼミの教授だって、そんなに困らせなかったぜ、と僕は心の中で思う。
「それは嘘じゃない。でも、僕には向いていなかった。だからエンジニアの仕事を辞めたんだ。仕事を辞めて、旅に出たんだ。旅に出たから、君たちと会えたんだ。だから僕にとっては、方程式が解けない方が良かったんだよ、きっと」
しかしもちろん、そんな苦しい言い訳ではジャマール君を納得させることはできなかった。
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冷や汗ものの数学責めが終わると、話題は政治問題に移った。もちろん、ここはホメイニ師を敬愛するマハーディ君の出番である。
「僕はアメリカという国が嫌いなんです。アメリカはイラン・イラク戦争のときにイラクに味方しました。イラク軍にたくさんの武器を援助し、それによってイラン人が数多く殺されました。世界中で戦争をして回っているのがアメリカという国です。あなたの国でも、アメリカとの戦争でたくさんの人が殺されましたよね?」
「そうだね」
「でもアメリカが嫌いではないんですね?」
「うん。今、ほとんどの日本人は、アメリカ人を友人だと思っているよ。毎年たくさんの日本人がアメリカに行く。アメリカンロックを聞き、ハリウッドムービーを見て、マクドナルドハンバーガーを食べている。スポーツもファッションもアメリカ流が当たり前になっている」
「アメリカの文化によって、日本の文化は変わったと思いますか?」
「変わったと思うよ。だけどアメリカ文化は、もはや僕らの毎日の生活に欠かすことができないものだから、誰も『変わった』とは意識していないかもしれない。文化というのは時間が経てば必ず変わっていくものだから」
「でもアメリカ文化は間違いなく僕らの文化を破壊しています。イラン人の生活の基本は祈りです。イスラムの教えを守ることが、何よりも大切なんです。でもアメリカ文化が入ってくることで、祈りは軽視されるようになります。ロックやファッションやポルノが若者の心を悪い方向へ導いているんです」
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