23歳のイマダブ。なかなかハンサムである
 アカバの市街地からバスで15分ほどのところにある砂浜に連れて行ってくれたのは、イマダブという青年だった。イスラエルの町を見ながら一緒に話をしたイブラヒムが、「友達に日本人と結婚している男がいる」と紹介してくれたのだ。しかし結婚はしているものの、一緒には暮らしていない訳ありの夫婦だという。
「本人から直接聞いてみたらいいけど、かなり変わった夫婦だよ」とイブラヒムは言った。

 明くる日の朝10時。約束した通りの時間に、イマダブは僕の部屋をノックした。彼はTシャツにハーフパンツというラフな格好で、人懐っこい笑顔を浮かべて立っていた。
「さぁ、僕の庭へ行きましょう!」
 イマダブは開口一番言った。彼はアカバ湾を巡るクルーズ船で欧米人観光客相手のガイドをしているだけあって、流暢な英語を話した。仕事がオフの日になると、彼はいつもサウスビーチという砂浜に出かける。そこが彼の「庭」なのだ。
「魚と一緒に泳いだり、海底に潜って貝殻を集めたり、パラソルの陰で昼寝をするんだ。きっと君も気に入ると思うよ」
 彼は嬉しそうに言った。


 サウスビーチは本当に息を飲むほど美しい海岸だった。彼が自慢したくなる気持ちがよくわかった。遠浅の海岸に満ちているエメラルド色の水。見渡す限り続く砂浜。青空から降り注ぐ強い日差し。「絵に描いたような」という形容詞がそのまま当てはまるほどの眺めだった。しかもここはメジャーなビーチからは少し離れているから、外国人観光客でごった返すということもないという。地元の人間だけが知っている「小さな天国」のような場所なのだ。


 アカバ湾は知る人ぞ知るダイビングスポットである。水の透明度が高く、魚の種類も多いのだそうだ。僕はまったくと言っていいほどダイビングに興味がなかったのだけど、イマダブにシュノーケリングセットを借りてほんの少し海を泳いだだけで、その素晴らしい水中パノラマに魅了されてしまった。
 色鮮やかな珊瑚礁から伸びる様々な種類の水草は、まるで小さな森のような広がりを見せている。その間をカラフルな衣装を身にまとった小さな熱帯魚が気ままに行き来している。海水はどこまでも透き通っていて、頭上から降り注ぐ硬い光線が海底を明るく照らしている。

 海で泳いだのは何年かぶりだった。正直言って泳ぐのは苦手だし、夏休みの海岸のうんざりするような人出も好きにはなれなかったのだ。でももし、家から20分のところにこんなビーチがあったら、僕だって毎週通っていただろう。

 イマダブの「庭」にすっかり魅せられた僕は、夢中になって遠浅の海を散策した。ところが調子に乗りすぎたのか、浅瀬で立ち上がろうとしたときに、ウニを踏んづけてしまったのだった。ウニのトゲは生け花の剣山みたいなもので、それをまともに踏んづけたのだから、痛さは半端じゃなかった。

「足下に注意しろよって、何度も言ったじゃないか」
 イマダブは呆れ顔で言いながら、ウニのトゲが刺さった場所ひとつひとつに煙草の火を押しつけていった。こうしておけばすぐに治る、と言うのである。しかしこれはかなりの荒療治だった。痛いところに熱いのがくるんだからたまらない。こんな「根性焼き」みたいなことで本当に治るんだろうか、という疑問が頭をかすめたものの、「海のことは任せておけ」と胸を張るイマダブを信じる以外に選択肢はなかった。


 昼食は持ってきたリンゴとバナナを二人で分けあって食べた。それから椰子の葉を編んで作ったパラソルの下で、しばらく昼寝をした。太陽は真上にあり、気温は40度近くまで上がっていたが、海から吹く風のお陰で過ごしやすかった。

 砂浜では、白いスカーフを被った3人の女性が、波打ち際に走っていく子供達を見守っていた。たとえ浜辺でも、貞淑なアラブ女性が水着を着るようなことはあり得なかった。ヨルダンはイランやパキスタンほど厳格なイスラム国家ではないけれど、人前で素肌をあらわにするようなことは、まだまだタブーなのだろう。
 男性でも海に入って泳いでいる人はほとんどいなかった。ヨルダンが海に接しているのは、このアカバ湾のわずか15kmだけだから、泳ぐという習慣がないのかもしれない。

「普通のヨルダン人は泳げないね」とイマダブは言った。「僕が泳げるのは、父に泳ぎ方を習ったからなんだよ。でも、その教え方っていうのが、ちょっと変わっていてね。父と僕が初めて一緒にプールに行ったときに、父は何も言わずいきなり僕を持ち上げて、プールに投げ込んだんだ。もちろんびっくりしたさ。泳ぎ方も全然わからないんだから、溺れそうになった。それでも父は助けてくれないんだ。だから、とにかく必死になって手足をバタバタ動かして、何とかプールサイドまで辿り着いたんだ」

「ライオンの親子みたいな話だね」と僕は笑った。
「その通り。僕の父はとても厳しい人なんだ。自分にも他の人にもね。父はヨルダン軍の兵士だったんだ。中東戦争では、レバノンに派遣されてイスラエル軍と戦った。でも、戦闘中に銃で足を撃ち抜かれて重傷を負ってね。その時、収容された病院で働いていたのが僕の母親なんだ。そこで二人は恋に落ちた。そして僕が生まれた。ねぇ、まるで映画のストーリーみたいだろう?」
「そうだね。じゃあ、君のお母さんはレバノン人なの?」
「そうさ。国境を越えた愛だね。僕らはしばらくレバノンで暮らしていたんだけど、内戦が激しくなったんで、ヨルダンに引き揚げてきたんだ」
「で、今は君が日本人と結婚しているってわけだ」
「面白いでしょ? もしかすると、僕の息子は南アフリカ人と結婚することになるかもね」
 イマダブはおかしそうに言った。

「君が奥さんと知り合ったときの話を聞かせてくれないかな」と僕は言った。
「長い話になるけど、いいかな?」
「もちろん。時間はいくらだってある」
「それもそうだね」とイマダブは言った。「彼女と出会ったのは三年前のことだ。僕は仕事を終えて、カフェでチャイを飲みながら海を眺めていたんだ。そこに一人の女の子がやってきた。後ろ姿がとても綺麗な人だった。彼女は着ていたシャツを脱いで、水着になって海に入っていったんだ。荷物をビーチに置いたままでね。不用心だなと思っていたんだ。そしたら案の定、ひとりの男がバッグに近づいて、中の財布を持ち去っていったんだ」

 海でひと泳ぎして帰ってきた彼女は、すぐに財布が無くなっていることに気が付いた。イマダブはすぐに彼女の側に行って、何かトラブルがあったんですかと英語で訊ねた。
「いいえ」彼女は硬い表情で言った。
「そんなはずはない。あなたは困っているはずですよ」
「どうしてそんなことを言うんですか?」
 彼女は目の前の男が犯人なんだと決めつけたような、疑いの眼差しを彼に向けた。それも無理のないことだと彼は思った。
「僕はあなたの財布が盗まれるのを、あのカフェから見ていたんです。大丈夫、犯人は僕の知っている男です。必ず取り返してあげます」
 彼が懸命に説明すると、ようやく彼女にも事態が飲み込めてきた。彼は彼女を落ち着かせようと、カフェに連れて行った。

「何か飲みませんか?」
「それじゃ、紅茶を砂糖抜きで」
 と彼女は答えた。彼はそれを聞いて、この人はきっと日本人だろうと思った。
「何か食べませんか?」と彼は訊ねた。
「パンをください」と彼女は答えた。
「『パン』とはなんですか?」と彼は訊いた。
「ああ、ごめんなさい。『ブレッド』よね。『パン』は日本語だったわ」
 彼女はようやく笑顔を見せた。キュートだな、と彼は思った。

 それからイマダブは犯人の男の家に行って、盗んだものを返すように言った。犯人はそんなものは知らないと突っぱねたが、俺は全部見ていたんだと言うと、急に態度を変えた。
「この財布には300ディナール入っている。お前が黙っていると言うんなら、150ディナールをお前にやってもいい。悪い話じゃないだろう?」
 しかし、イマダブはそんな話には乗らなかった。
「それは日本人の女の子のものだ。お前が返さないのなら、俺は警察に行く。それでいいんだな?」
 しばらく睨み合いが続いたが、最後には犯人は折れて、財布は彼女の元に返った。

 彼女は彼の行動に感激して、何度も礼を言った。そして、最初にあなたを疑って悪かったと謝った。それから二人は浜辺に並んで話をした。日が暮れるまでずっと話し続けた。夜になると星を眺めた。
 半日一緒にいただけなのに、彼は彼女のことを好きになっていた。お互いに英語が上手いわけではないし、育ってきた環境もまったく違うし、年だってずいぶん離れていた(彼女は彼よりも10歳近く年上だった)けれど、そんなことは気にならなかった。こんな風に人を好きになったのは、彼にとって生まれて初めてのことだった。

 その夜、イマダブは彼女にキスをした。彼女の方から「キスして」と言ってきたのだ。もちろん嬉しかったが、同時にひどく動揺した。当時20歳の彼にとって、これが初めてのキスだったからだ。
 その日から、二人はワディ・ラム砂漠やぺトラ遺跡を一緒に旅行した。その一週間は毎日が楽しくて仕方なかった。こんな日がずっと続けばいいのにと思った。でもそうはいかなかった。とうとう彼女が日本に帰る日がやってきた。
「どうして君は帰ってしまうんだ?」と彼は言った。「君を愛しているんだ。君と一緒にいたいんだよ」
 彼女は何も言わなかった。その代わり、目から大粒の涙をこぼした。涙は止まらなかった。彼はそれ以上何も言えなくなってしまった。女性に泣かれたのも、生まれて初めての経験だったのだ。

  (続く・・・)

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