夕食をご馳走になった後、ゲルの外に出てみることにした。日中はTシャツ一枚でも汗をかくほど暑かったが、日が暮れると急に冷え込んできたので、長袖のシャツの上にウィンドブレーカーを羽織った。

 西の空には地平線の下に沈んだ太陽が残した蒼い光のグラデーションがあった。針のように細い新月が、太陽のすぐ後を追いかけるように、丘の向こうに沈もうとしていた。雲はなく、風もなかった。

 僕は荷車の上に寝そべって星空を見上げた。圧倒的な数の星が、天頂から地平線までの空間全てを埋め尽くしていた。空を真ん中でふたつに分けるように天の川が横たわっていて、そのそばにひしゃく型の北斗七星が輝いていた。それは昼間に飲んだ馬乳酒アイラグと、それを汲むひしゃくを思い出させた。時々流れ星が音もなく空を横切った。一定のスピードで移動する小さな光の点――たぶん人工衛星だろう――も見ることができた。

 手を伸ばせば指先に触れられそうなくらいに、ひとつひとつの星はくっきりと見えていた。大気の揺らぎというものがなく、星は瞬きさえしなかった。そうやって長い間星々の世界と向き合っていると、自分の体が大地を離れ、空に近づいているような錯覚を覚えた。


 気が付くと、僕は星々の海を漂っていた。肉体を縛る重力はなくなり、星々の世界を自由に行き来できるようになっていた。僕は数千億ある星々の中から太陽を見つけ出した。太陽のそばにはいくつかの岩の塊が浮かんでいる。その中のひとつ、青い海と白い雲を持つ惑星に近づいてみる。分厚い雲の下には大陸があり、その右端におまけみたいにくっついている島国を見つけ出す。

 僕の視線は自分が旅したルートをなぞるように移動する。インドシナ半島からインド亜大陸を西へ抜け、中東の砂漠を渡り、東欧の平原を北上し、シベリアの森を東へと走る。ユーラシア大陸をぐるりと一周することになる。

 僕は小さな町から町へ、バスや列車を使って移動してきた。次にどこへ行くのかは、思いつきと成り行きにまかせていた。その結果、僕はこの草原に辿り着いた。流れ星がいつどの空に落ちてくるか予測出来ないように、僕の行き先も予測ができなかった。

 星の世界から見れば、地球はちっぽけなものだ。そしてその地球の上をあくせく這い回っているのが、僕というさらにちっぽけな存在なのだ。でも自分がちっぽけだと感じるのは、僕にとって嫌なことではない。それは親近感にも似た感情だ。
 全ての生き物が同じように小さく、同じように非力なのだ。広大な草原の中で星の世界に身を委ねていると、その事実を素直に受け入れることができた。


 ギーという軋んだ音で、我に返った。ゲルの木戸が開き、ニャンダルチが外に出てきた。
「星を見ているんですか?」
 彼女は僕の隣に腰を下ろして言った。
「そうだよ」僕は体を起こした。「日本ではこんな綺麗な星空は見ることが出来ないからね。流れ星もたくさん見えたよ」
 「流れ星」を英語でなんて言うのかわからなかったので、手真似で空をひゅっと切ってみせた。

「それはモンゴルでは悪い印なんです」とニャンダルチは言った。「誰かが死ぬと星が落ちるって言われているの。だから流れ星を見たら目をそらすのよ」
「ということは、この1時間に8人が亡くなったみたいだね」と僕は言った。流れ星がいくつ見えたか数えていたのだ。
「でも僕ら日本人は、流れ星を幸運の印だって考えているんだ。もし星が流れている間に願い事を言い終えることができたら、その願いは叶うだろうって」

「それで、あなたは何を願ったんですか?」
 ニャンダルチは声を潜めて言った。
「・・・何も」僕は少し考えてから答えた。「何も願っていないよ。僕の願いはもう叶えられているって思うからね。9ヶ月前、僕が旅を始めたときには、モンゴルに行くことになるなんて1%も考えていなかった。それが今ここにいて、生まれてから一度も見たことがないような美しい星空を眺めている。いくつもの偶然が重なって、僕はここにいるんだ。とても幸運だったんだと思う。だからこれ以上願うことなんて何も無いんだ」

「9ヶ月もずっと旅をしているんですか?」とニャンダルチは言った。
「そうだよ」
「それじゃ、あなたも私たちと同じですね。私たちも一年中旅をして暮すんです。来週には羊を連れて、また別の草原に移動するわ」
 彼女の言う通りかもしれない。新しい草原を求めて移動する遊牧民と、新しい町を求めて移動する旅人。その両者が本質的に似ているからこそ、僕はモンゴルの遊牧民の生き方に惹きつけられるのだろう。

「もう寝ましょう。かなり冷えてきたから」
 ニャンダルチは両手にはーっと息を吐きかけて擦り合わせた。圧倒的な星空に心を奪われていて気が付かなかったのだが、外の気温は急激に下がっているようだった。
「そうした方がいいみたいだね」と僕は言った。「明日の朝も早いんだろう?」
「日の出前にはみんな起きるんです」とニャンダルチは言った。遊牧民は早寝早起きなのだ。



 ゲルの中は暖かかった。家族がひとつ屋根の下に身を寄せ合っているという親密な空気が、小さくて丸い空間を満たしていた。部屋にランプはなく、小さな蝋燭がひとつ灯っているだけだったが、闇夜に慣れた目にはそれだけで十分明るかった。

「あなたはここに寝てください」
 ニャンダルチが左側のベッドを指さした。ゲルの中には若夫婦と赤ん坊、ニャンダルチと妹、それにシャウワさんがいるのだが、ベッドは三つしかなかった。だから僕がベッドひとつを占領してしまうと、残りのベッドには3人ずつが寝ることになってしまう。一晩だけとは言え、申し訳なかった。

「大丈夫だよ。私たちはこういうのには慣れているんだ」
 シャウワさんは僕の顔を見て言った。シャウワさんと下の娘二人は、三人で「川」の字になってベッドに入った。慣れているのかもしれないが、さすがに窮屈そうだった。


 シャウワさんが蝋燭を吹き消すと、ゲルの中は完全な闇で覆われた。目を開けていても目を閉じていても、変化がわからないような闇だった。でも僕はなかなか眠ることができなかった。12時間の移動で体は疲れているのだが、意識は高ぶったままだった。

 暗闇によって視覚が遮断されてしまうと、今まで聞こえなかった小さな物音がはっきりと聞こえるようになった。草原の夜は様々な音に満ちていた。羊のくしゃみ、馬の鼻息、犬が吠える声、隣のゲルから聞こえてくるくぐもった人の話し声。そのようなささやかな物音は、僕に安らぎを与えてくれた。小さな営みに包まれ、守られているのだと感じることができた。

 広大な草原の中で、ひとつの家族が身を寄せ合って暮らしている。親子三人が小さなベッドを分け合って眠っている。そういう小さな世界に、僕もまた含まれている。
 この世界に「僕」はたった一人だけど、「僕たち」は一人ではない。そう思えることが嬉しかった。


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