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  たびそら > 旅行記 > スリランカ編


 スリランカは島国なので、日本と同じように漁業が盛んだ。海沿いを旅していると、小規模な漁村が数キロおきに点々と続いていることに気付く。浜辺では男たちが網を引く姿がそこかしこで見られる。



 スリランカ北東部にあるニラヴェリは、典型的な半農半漁の村だった。男たちが漁に出ているあいだ、女たちが畑仕事をする。モーターボートで沖合に出ていた漁師たちが、本日の獲物である2匹の伊勢エビと5匹のヒラメを見せてくれた。大漁だったらしく、漁師たちも顔をほころばせている。伊勢エビは1キロ5000ルピー(5000円)、ヒラメは1キロ300ルピーで仲買業者に売れるのだそうだ。さすがは伊勢エビ。超が付くほどの高級品である。

ニラヴェリ村でタマネギを植える女たち。腰をかがめて小さなタマネギの球根を土に埋め込んでいく。2ヶ月後には収穫できるそうだ。


 スリランカ西部の町チラウに住む漁師たちは面白い方法で漁を行っていた。畳一枚分ぐらいの小さな板状のボートに座り、半分に割った竹をオール代わりにして、沖へと漕ぎ出すのだ。エビや小魚が網にかかるらしい。夜明け前に海に出て、朝の8時頃には浜辺に戻ってくる。こんなに小さくて不安定な乗り物でよく転覆しないものだ。

小さなボートで漁に出る男


 チラウの魚市場は活気に満ちた場所だった。50キロぐらいある大きなマグロがごろごろしていた。大型魚はコロンボなどに運ばれるようだが、小さな魚は地元の人が買って、その場でさばいてもらっていた。市場には魚の解体を専門にしている男たちが並んでいて、慣れた手つきでざくざくと頭や骨を切り落としていく。

魚市場で魚をさばく男たち


「マグロはだいたいコロンボの高級ホテルやレストランに卸されるんだ。輸出はあまりしていないんじゃないかな。日本人がとりわけマグロが好きなのは知っているけどね」
 魚市場で親しげに話しかけてきたアントニオさんが教えてくれた。もともと古都キャンディーで観光ガイドの仕事をしていたのだが、内戦激化のあおりを受けて観光業が落ち込んだので、魚の仲買人に転身したのだそうだ。ずいぶん思い切った転職である。なかなかダンディーな風貌で、ちょいワルな雰囲気も持っている。若い頃は相当モテたんじゃないだろうか。

「結婚は三回したんだ」とアントニオさんは自慢げに言った。「一人目はスペイン人だった。スペインに10年間住んでいたときに知り合ったんだ。いい女だった。やさしくて情に厚くて、お尻が大きかった。二人目はブラジル人だった。こいつは情熱的だったね。毎晩セックスしなきゃ気が済まないんだ。三人目のスリランカ人が一番美人なんだ。今はこの妻と一緒に暮らしている。俺はブラジル人の妻のことも好きなんだけど、他に妻がいることを知った途端に出て行ってしまったんだ。女っていうのはどうしてあんなにすぐに怒るんだろうね。不思議だよな。みんな仲良くすればいいじゃないか。そう思わないか?」

 不思議なのはあんただよ、と思わずツッコミを入れたくなったが、彼は飄々とした表情で「みんな仲良く」と繰り返すのだった。スリランカで重婚が認められているのかは知らないが、アントニオさんは法律のことなど全然気にしないでマイペースで暮らしているようだった。困った男だが、どことなく憎めない人でもあった。

スリランカ西部プッタラムには大規模な塩田があった。ベトナムと同じようにトンボのような道具を使って地面をならしている。



 田舎を旅しているときは、基本的に身振り手振りでコミュニケーションを取ることになる。これはアジアのどの国でも変わらない。比較的英語が通用する南アジア諸国やフィリピンでも、英語を話せる人は都市部に集中しているので、農村や漁村で流ちょうに英語を話す人に出会うことはほとんどないのである。

 しかしスリランカでは事情が違っていた。その辺にいる漁師のおっちゃんや食堂のおやじさんまでもが、(片言ながらも)ちゃんと理解できる英語を話してくれたのである。これはスリランカの教育レベルの高さを裏付けているのだろう。実際、スリランカの識字率は92%を超えていて、南アジアでもっとも高い水準なのである。



 カルムナイという漁村で船の手入れをしていたおじさんとも、英語で世間話をすることができた。
「今はシーズンじゃないから、魚はあまり捕れないんだよ。3月になれば魚が集まってくるんだ。一日の漁で2万ルピーも儲かるときもある。それを漁に出た3人と船のオーナーとで4等分するんだよ」
「魚が捕れない時期はどうしているんですか?」
「そりゃ困るねぇ。他の仕事をするか、どこかから金を借りてこなくちゃいけない。いつもギリギリの生活なんだ。3年前津波に襲われたときは、この村でも何百もの家が壊れたんだ。俺たちの船も壊れちまったから、直すのが大変だったんだ」
 おじさんは敬虔なムスリムらしく、「津波のときにもモスクだけは壊れなかったんだ」と胸を張った。スリランカ人の7割が仏教徒だが、漁村にはムスリムとキリスト教徒の割合が高いのである。
「あんたは日本人かい?」
「そうです」
「日本はいい国だよ。俺の仲間の船もヤンマーのエンジンを積んでいるんだ。ヤンマーは日本製だろう? 日本人はほんとにいいものを作るな。全然故障しないんだ。インド製とは違うよ。日本の技術は本当に素晴らしいよ」

 1月の海は波が高いので、小さな漁船が出航するのはかなり大変そうだった。大きな波を受けて、船が45度ぐらいまで傾くこともある。船の横腹についている浮きによって、何とか転覆せずにバランスを保っているようだった。

波を受けて大きく揺れる漁船


 英語を話すおじさんは「あんたもこれに乗って海に出てみるかい?」と誘ってくれたのだが、あの激しい揺れようを見る限り、僕にはとても無理だと思ったので、丁重にお断りした。あれじゃまるで安全バーなしでジェットコースターに乗るようなもの。プロの漁師はともかく、素人の僕が無事に戻ってこられるとは思えなかった。

 スリランカの漁村ではずいぶんたくさんのシャッターを切った。青い海と晴れ渡った空、打ち寄せる波と背の高い椰子の木。漁村にはこういった「絵になる」アイテムが揃っていたからだ。しかしそれ以上に嬉しかったのは、人の絆を感じさせるシーンに数多く出会えたことだった。



 漁師たちは常に誰かと協力しながら漁を行う。漁船は一人では操れないし、浜に戻ってくるときにもたくさんの仲間の手を借りなければいけない。誰かを助けたり、誰かに助けられたり。そういった密な関係があってはじめて漁というものが成り立っているのだ。

 もう船に乗ることができない老人も、網を引く仕事なら手伝えるし、海で遭遇した数々の経験を次の世代に語り継ぐこともできる。ここには必要とされていない人などいない。誰もが小さな生きがいを感じながら日々を生きている。
 そんな漁村の暮らしぶりに、僕は心を動かされ、人々にレンズを向けたのだった。




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