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 例によって旅の予定を決めないまま飛行機に乗った。バリ島からマニラに向かう飛行機に乗り、その機内でフィリピンのガイドブックをぱらぱらとめくりながら行き先を決めたのである。毎度のことではあるが、あまりの無計画ぶりに自分でも驚いてしまう。

 フィリピンは7000を超える島を持つ島嶼国家だが、その中でもかなりマイナーなパラワン島から旅を始めることにした。たいした理由があったわけではない。東西に細長くのびた島のかたちに何となく惹かれるものを感じただけだった。

 パラワン島最大の町プエルト・プリンセサは大きな湾に面した漁業の町だった。「最大の町」といっても賑わっているのはメインストリート沿いの一区画だけで、それ以外はただの田舎町という風情。高層ビル群が建ち並び、昼夜を問わず賑やかな首都マニラから見れば、まったくの辺境である。

 プエルト・プリンセサの中でも特に面白かったのは、海の上に作られた町だった。土地を持たない人々が海底に丸太を何本か突き立てて、その上に粗末な小屋を建てて勝手に住み着いているのだった。

海の上にせり出した町と小さな漁船。

 家と家の間は木の板を貼り合わせた渡り廊下で結ばれていた。無秩序に規模を拡大したらしく、渡り廊下は迷路のように複雑に入り組んでいた。
 ごちゃごちゃとしていて生活感に溢れている町並みを歩くのは楽しかった。ひとつ角を曲がれば「バナナQ」と呼ばれる串刺しの焼きバナナを売る店があったり、車座になってビンゴゲームを楽しむおばさんたちがいたりするのだ。

路地裏でバナナを「大学芋」風に料理している少女。味もまさに大学芋だった。

ビンゴゲームを楽しむおばさんたち。フィリピン人は賭け事が大好きだ。

これがフィリピン名物ハロハロ
 町を歩くのに疲れると、「ハロハロ」というフィリピン風かき氷を売る屋台で一休みした。ハロハロとは「混ぜる」という意味で、このかき氷にも色とりどりのゼリーや細かく切ったバナナや米菓子などがたくさん混ざっていた。氷と具材とコンデンスミルク。この三つをスプーンでぐちゃぐちゃにかき混ぜて食べるのが、ハロハロの正式な食べ方なのだ。

 「フィリピンはハロハロの国」という言い方がある。食べ物にしても文化にしても、他の国の良いものをどんどん取り入れてぐるぐるとかき混ぜるのがフィリピン流、ということらしい。「柔軟性がある」と言えるのかもしれないし、「節操がない」という言い方もできるだろう。

 その「ハロハロ精神」は庶民の遊びの中にも見ることができた。4人の男たちが囲んでいたのはインドやスリランカなどでお馴染みのボードゲーム「キャロン」だった。オセロみたいなプラスチックの平べったい玉をおはじきのように指で弾き、ボードの四隅にある穴に玉を落として得点を競うものである。

 しかし男たちが行っていたのは普通のキャロンよりもはるかに複雑なゲームだった。彼らはキャロンの平べったい玉をわざわざビリヤードのキューを使って弾きながら、さらにトランプの要素まで組み込んでいたのである。どうやらトランプの手札によって「どの玉を落とすか」という戦略が決まるらしい。トランプはトランプで、キャロンはキャロンで、ビリヤードはビリヤードでやればいいのではとも思うのだが、「三ついっぺんにやった方が楽しいじゃないか」というのが男たちの言い分なのである。

「キャロン+ビリヤード+トランプ」。最後までルールがよくわからなかった。

 人々のライフスタイルにも「ハロハロ精神」を見て取ることができた。海上の町に住む人の大半は漁業に携わっているのだが、その収入だけでは心許ないらしく、多くの家で豚や鶏が飼われていたのだ。「半農半漁」という言葉があるけれど、この場合は「半畜半漁」とでも言ったらいいのだろうか。鶏や豚は残飯を与えておけば勝手に育つし、牛や羊みたいに草地を求めて散歩させる必要もないから、町中で飼うにはぴったりなのだろう。そんなわけでフィリピンの路地裏にはいつも大きな体を持て余し気味に寝そべる豚の姿があった。

フィリピンの町には豚を飼う家が多い。

家と家とを結ぶ渡り廊下で寝そべる犬。
 ハロハロの食べ方のイロハを僕に教えてくれたのはエリザベスさんだった。ごく普通の中年のおばさんなのだが、とても流暢な英語を話した。フィリピンはアジアでもっとも英語が通用する国だとは聞いていたが、それは嘘ではないようだった。

 エリザベスさんの家も海の上にあった。廃材を組み上げた土台の上に建てられた小さなトタン屋根の家だ。
「ご覧の通りプアーな家よ」
 インスタントコーヒーを運んできたエリザベスさんが笑いながら言った。
「日本にはこんな家はないんじゃない?」
「ええ、確かにありませんね」
 僕は頷いた。そもそも海の上に勝手に家を建てて住み着いていること自体、日本では考えられないことだ。

 しかしエリザベスさんはあばら屋のような外見から想像されるほど貧しい生活を送っているわけではなかった。家の中には大きなソファと2ドアの冷蔵庫が置かれ、テレビとカラオケセットもあった。カーテンで仕切られただけだが、一応個室もある。
「夫は公務員なんだけど、給料は高くないのよ。でもテレビだけはどうしても欲しかったの。だってもし家にテレビがなかったら、子供たちはよその家の窓からテレビを眺めることになるでしょう? そういう可哀想なことをさせたくなかったのよ」

 中国製や台湾製の安い製品が出回るようになったので、フィリピンの貧しい家庭にもテレビは普及しているのだが、まだ家にテレビがない子供たちもたくさんいた。彼らは人気ドラマなどが放送される時間になると、隣近所の家の窓際に立って、部屋の中のテレビ画面を食い入るように見つめているのだった。それは「貧富の差」という言葉をはっきりと示す光景でもあった。


「パラワン島の島民の多くは、この2,30年の間に他の島から移住してきた人たちなの」
 とエリザベスさんは言った。特に多いのがビザヤ諸島のボホール島からの移住者だという。
「ボホール島は台風の通り道なの。ひどいときには1年に20個も台風が襲ってくる。そのたびに家は壊れるし、せっかく育てた作物はダメになってしまう。本当に大変だったわ。夏になると毎日台風のことばかり考えて暮らしていた。だから私たち一家はパラワン島に越してきたの。ええ、この島は台風のコースから外れているのよ」

 パラワン島の主な産業は農業と漁業である。良い漁場に恵まれている漁業は好調で、この島の漁獲量がフィリピン全体の65%を占めているほど。近海ではアジやエビやイカなどが、沖合に出ればマグロが獲れる。

パラワン島の漁村にはこのような小さなボートが無数にある。

 漁師たちの悩みの種は、収入が季節によって大きく変動することである。マグロ漁がピークを迎える4月から6月は漁師の懐も大いに潤うのだが、季節が秋から冬になり、船が出せない日が続くと、収入も激減してしまうのだ。その時期は夏に蓄えたお金で乗り切らなくてはいけないのだが、ギャンブルや酒などの遊びにつぎ込んだりした「キリギリス型」の漁師は、町の金融業者から借金をすることになるという。

「私も昔は雑貨屋をやっていたの」とエリザベスさんは言った。「でもこの町の人はお金がなくても買い物をするのよね。漁のシーズンが来て金が入ったときにまとめて払うからって言うんだけど、そのツケを踏み倒す人もたくさんいるのよ。いいかげん払ってくださいよって言っても全然聞かないの。これじゃとても店なんてやっていけないから、5年ぐらい前に畳んじゃったのよ」

 確かにこの町には「NO CREDIT!」と書かれた紙を貼っている店が多かった。日本語に訳せば「ツケお断り!」といったところだろうか。借金やツケ払いが当たり前になっているので、それを踏み倒すことにもさほど罪の意識を感じないのかもしれない。

プエルトプリンセサの海沿いには、貧しい家が並んでいた。
 エリザベスさんたち「海の上の住民」は法律的には不法居住者である。海岸線は政府所有の土地であり、そこに勝手に住むのは違法行為なのだ。だから立ち退きを求めて政府の役人がやってくることもある。それでも海上居住者の数は減るどころか、近年ますます増えているという。

「そりゃ違法かもしれないけど、他に行くところがないんだからどうしようもないじゃない」
 エリザベスさんはあくまでもクールに言った。フィリピンは貧富の差の激しい国だ。地主階級が富を独占する一方で、多くの庶民は貧困ラインぎりぎりの生活を送っている。その象徴が彼女のような不法居住者なのだが、この町の暮らしから透けて見えるのは、ただ貧困にあえいでいるだけでなく、その中でもしたたかに生きる庶民のたくましさだった。

「役人は『こんな町で火事が起こったら大変じゃないか』って言うの。それは正しいわね。実際、13年前にこの町は火事に襲われて、ほとんどの家が燃えてしまったのよ。あとに残ったのは丸太の土台だけ。それでもすぐに私たちは同じ場所に町を作った。違法だろうがなんだろうが、ここは『私たちの家』であり『私たちの町』なのよ」
「それじゃ、これからもずっとこの町に住み続けるつもりですか?」
「いいえ。出て行けるものなら、いつでもこの町を出て行くつもりよ」彼女はきっぱりと言った。「私の夢はね、海の上じゃなくて陸の上にマイホームを持つことなの。大きくなくたっていいの。普通の家でいいのよ」

「海の上の町」の路地裏。

 エリザベスさんは砂糖をたっぷりと入れたコーヒーを一口飲むと、窓の外に目をやった。海の上に建ってはいるが、そこから海を見ることはできなかった。隣の家との隙間があまりにも狭すぎるからだ。
「私の自慢はね、3人の子供たちをみんな大学へ通わせたことなの。フィリピンではなかなか難しいのよ。家具や着るものや食費も切り詰めて、子供たちを学校へ行かせたの。そうすることが子供たちの将来のためになると思ったからよ。それももう終わり。みんな卒業してしまったわ。あとはのんびりと暮らすのよ」

 エリザベスさんとの他愛もないお喋りは、僕にとって新鮮な経験だった。アジアの他の国では英語を自由に操れるのは高い教育を受けたエリート層か、旅行者を相手にしているホテルの従業員か、若い学生に限られていたので、彼女のような普通のおばさんと世間話をする機会はほとんどなかったからだ。

 フィリピンの奥さんも日本の奥さんたちと同じように、子供の教育問題に悩み、マイホームを建てる夢を持って暮らしている。そんな当たり前の事実に、改めて気付かされたのだ。


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