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 フィリピンでは普通のおばさんが英語を話すことが珍しくないが、片言の日本語を話せる人も意外に多かった。そのほとんどが以前にホステスやダンサーとして日本に渡り、何年か働いたあと故郷に戻ってきた女性たちだった。

 プエルト・プリンセサの町をぶらぶらと歩いているときに知り合ったジュンさんは、日本に行ったこともないのに片言の日本語を話せる珍しい人だった。
「私、マニラでポン引きしてたね」とジュンさんは言った。
「ポン引き?」
「そう、ポン引きね。日本のお客さん、みんなお金持ち。いい人ばかりね。私、話すね。『いい女知ってる。ヤスイヨ! 一晩50ドルね。高くないね。ヤスイヨ!』。私、女の子紹介する。私、その人からチップもらう。とってもいい仕事ね。日本人、みんないい人。でも、スケベね。アハハ。若い子、好きね。『16歳(シックスティーン)はいないのか?』って聞く。自分は60歳(シックスティ)なのに。アハハ」

 マニラは性風俗の街として世界的に知られている。僕が泊まったエルミタ地区にもバーやナイトクラブが軒を連ねていて、夜の路上にはジュンさんのようなポン引きがたむろしていた。彼らの仕事は売春の斡旋だけでなく、安宿の紹介や麻薬やバイアグラの販売など。要するに裏社会の「何でも屋」だった。

 ジュンさんは5年前にポン引き稼業から足を洗ってこの町に戻ってきた。警察に捕まることもしょっちゅうあったし、バブル期に比べると日本人の上客はめっきり少なくなってしまったからだ。今は漁師をしている。ポン引きをやめて、網を引くことにしたのである。それを「華麗な転身」と言うべきなのかはわからないが。

「今はマグロのシーズンが始まるのを待っているんだよ」
 ジュンさんは英語に切り替えて言った。片言の日本語が使えるのは、ポン引き時代の話をするときに限られているようだった。
「今は暇だけど、3月から8月がものすごく忙しいんだ。三日間ずっと海に出たまま漁を続ける。船の倉庫がマグロで一杯になったら港に戻ってくる。マグロは1kgが200ペソ(480円)で売れる。ポン引きほどじゃないけど、いい仕事だよ」


 以前はやくざな仕事で食いつないでいたジュンさんだが、三人の子供たちにはそのような道を歩いてもらいたくないという。
「やっぱり教育が一番大切だよ。フィリピンの貧しい子供たちは高い教育を受けられないから、金を稼ぐためにホステスになったり、ストリップダンサーになったり、売春婦になったりする。そんな風に自分を安売りするのは良くない。私はマニラでダメになっていく若い女の子をたくさん見てきたから、よくわかるんだ」

 ポン引きを生業にしていたわりに、ジュンさんの意見はすごくまともだった。夜の街に群がる男たちが醸し出す独特の胡散臭さも感じなかった。彼がポン引きを辞めた本当の理由は、最後までその商売に馴染むことができなかったからではないかという気がした。
「フィリピン最大の輸出品は何だか知ってるかい? バナナ? ノー。女の子だよ。ダンサー、ホステス、ハウス・メイド、それからワイフ。みんな外国へ輸出している」
「ワイフ? ワイフを輸出しているんですか?」
「そうだよ。この国には外国人の男にフィリピン人の妻を紹介する専門の業者があるんだ。新聞広告にもよく出ているよ。日本にもたくさん行っているんじゃないかな」

 フィリピンが出稼ぎ大国だということは、よく知られた事実である。欧米やアラブの産油国や香港などに大量のメイドや看護婦を送り込んでいる。そうした出稼ぎ労働者達の送金がフィリピン経済を支えているのだ。しかしメイドとして働くのと外国人と結婚して家庭を作るのとでは、ずいぶん意味合いが違う。
「たいした違いはないさ」とジュンさんは言った。「メイドにしてもホステスにしてもワイフにしても、みんなサービス業じゃないか。相手にサービスをしてお金を稼ぐ。その点ではみんな同じだよ」

町中で飼われている豚が、物欲しそうに顔を覗かせていた。

 プエルト・プリンセサの住宅街で出会ったギリヤさんは、娘と妹がどちらも「花嫁斡旋」によって外国人と結婚したことが自慢だった。妹はイギリス人と、娘はフランス人と結婚したという。彼女が見せてくれたスナップ写真には、美しい海岸と広々とした一軒家、それに庭の芝生の上で微笑む孫娘が写っていた。絵に描いたような幸せな家庭だった。

 ギリヤさん一家は「花嫁斡旋」の成功例である。娘と妹が外国人と結婚して、毎月少なくない額のお金が送られてくるようになったので、ギリヤさんの生活にもゆとりが生まれたという。外国人との結婚は本人だけでなく親戚一同にも大きなメリットをもたらすものなのだ。


「外国人と結婚するフィリピン女性の目的のひとつがお金であることは、私も認めるわ」とギリヤさんは言った。「だけどフィリピン女性はヨーロッパ人の女性と違って夫に尽くすし、辛抱強いし、誠実なのよ。娘の夫はそういうところが気に入って結婚したんだと思う」

 ギリヤさんの娘の性格は写真だけではわからなかったが、人目を引く美人であるのは確かだった。ウェーブのかかった艶やかな黒髪と、目鼻立ちの整った顔。スタイルもいい。彼女に比べると、15歳年上の夫の印象は「地味」の一言だった。

「もちろん性格だけじゃなく、若くて美しいことも結婚の条件のひとつね」
 彼女は頷いた。若さと美貌によって異国での豊かな生活を手に入れたことを素直に認めた上で、結婚生活を楽しんでいるのであれば、それに対して他人がとやかく言う筋合いはないのだろう。考えてみれば日本の結婚事情だって、わずか数十年前にはこれと似たようなものだったのだから。

 昔は日本でもごく一部の例外を除いて恋愛と結婚が結びつくことはなく、良縁とは結局のところ「品定め」と「打算」に基づいていた。生まれが貧しくて器量のよい女性が良家のお坊ちゃんに「見初められる」ことで、貧しさから抜け出すという「生まれ変わり婚」はいつの時代にも普遍的にあったもので、フィリピンの「花嫁斡旋」はそれがグローバル化しただけなのだ。需要があるところに供給が集まる。競争原理に基づく資本主義社会であれば、美しい花嫁がお金持ちの国に集まってくるのも当然の成り行きなのだろう。

 ・・・とまぁ頭では理解できたものの、感覚的には「でもなんか違うんだよなぁ」という釈然としない思いが消えることはなかった。「結婚は出稼ぎ労働のひとつである」というのは抜き差しならないリアルな現実かもしれないが、「彼女はそれで幸せになれるのか?」という疑問がずっと頭を離れなかったのだ。

 たぶん僕は「恋愛に基づく結婚」という物語(あるいは幻想)にとらわれているのだろう。あるいは「日本という国はそのようなロマンチック・ラブの物語を生きられるほど豊かで平等な社会である」という言い方もできるのかもしれない。


「あなたも日本人なんでしょう? お金持っているんでしょう? だったらこの町にいる一番の美人と結婚できるわよ。なんだったら私が紹介してあげてもいいわ」
 なかなか結論が出ない問いに頭を悩ませている僕に向かって、ギリヤさんはあっけらかんと言い放った。半分は冗談なのだろうが、半分は本気でもあるようだった。

「そういうつもりじゃないんです。結婚相手ぐらい自分で見つけますよ」
 僕はその申し出を急いで断ると、ベンチから立ち上がった。これ以上ここにいたら、本当に年頃の娘を連れてきそうな勢いだった。
「フィリピン女性は辛抱強くて誠実よ。これは本当だから」
 ギリヤさんは僕の背中に向かって、そう繰り返した。


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