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 入れ墨祭り本番は、前の晩に映画上映会を行っていた大きな広場で行われた。広場の正面にはこのお寺のシンボルである大きな仏像があり、祭りの参加者はそれに向かい合うかたちで並んでいた。家族や友達同士がひとかたまりになって、持ってきたゴザの上に座る。雰囲気としては野外コンサートの開始を待つ人々といった感じだった。

広場の正面に置かれた仏像に向かって祈る。

 そのような和やかな空気を切り裂いたのは、「ウォー!」という雄叫びだった。参加者の一人がむっくりと立ち上がり、両手を大きく広げて空に向かって叫び、そのまま全速力で走り始めたのだ。その表情は苦痛に歪んでいる。カッと見開いた目には明らかに狂気が宿っている。トランス状態に陥っているのだ。


 男は何かを掴もうとするように右手を大きく突き出しながら、仏像に向かって突進を続けた。仏像に触れられれば願いが叶うとでも言うように、一直線に突っ走っていく。しかし彼が目的を果たすことはできない。仏像を守る役割を与えられた兵士たちが、彼の行く手に立ち塞がっているからだ。トランス状態の男はアメフト選手のように果敢な体当たりを試みるが、鍛え上げられた屈強な兵士たちの壁を突破することはできない。


 4,5人の兵士たちよって取り押さえられた男は、間もなく正気を取り戻す。彼は「俺はいったいここで何をしているんだ?」というような呆然とした表情をしている。そして兵士に促されるまま、自分が座っていた場所に戻っていく。両腕をだらんと下げ、背中を丸めて歩く男の姿は、まるで魂の抜け殻のように見える。

突進を止めようと待ち構えている兵士たち

 この祭りでは「誰かが雄叫びを上げ → 仏像に向かって突進し → 兵士に止められ → 元の場所に戻る」というサイクルが、何十人もの男たちによって延々と繰り返された。男たちがなぜトランス状態に入ってしまうのか。なぜ彼らは仏像に向かうのか。なぜ兵士たちは突進を阻止しようとするのか。すべては謎に包まれていた。

 祭りを仕切る虎将軍は「男たちの入れ墨には魂が降りてくる。その力が彼らを走らせるんだ」と説明してくれたが、それを聞いたところで「ああ、なるほど」とすぐに理解できるものではなかった。おそらくこの不可解な現象に意味を求めること自体ナンセンスなのだろう。男たちは狂い、突進し、正気に戻り、また狂う。これはそういう祭りなのだ。

雄叫びを上げながらトランス状態に入り、

仏像に向かって全速力で走る。

「突進してくる男たちを止めるのには、特別な方法がある」と虎将軍は言う。「まず体を持ち上げて、足を地面から離してしまう。そうすると男たちは前に進めなくなる。次に耳を引っ張る。人間は耳を引っ張られると正気に戻るんだ。覚えておくといい」

 実際、兵士たちは彼の言う通りに行動していた。体を持ち上げ、耳をぎゅっと引っ張る。するとトランス状態の男たちは魔法が解かれたように正気に戻るのである。実に鮮やかだった。人間の体に仕組まれた秘密のスイッチを押しているみたいだった。もっとも、このテクニックが僕らの日常生活においてどのように役に立つのかは、さっぱりわからなかったが。

体を持ち上げると突進は止められる。

そして耳を引っ張られると正気に戻る・・・らしい。

 トランス状態に陥った男たちには、いくつかのパターンがあった。虎将軍が教えてくれたように、この祭りでは体に彫られた入れ墨に魂が降りてくるので、その図案によって彼らが「変身」するものも変わるのである。虎の入れ墨を持つ男は虎のような形相で暴れ回り、阿修羅の入れ墨を持つ男は剣を構えて走り出す。すばしっこい猿に変身する者もいれば、なぜか「カーッカッカッ」と大声で笑いながら歩く老人になる者もいたし、地面を這いながら進むヘビに変身する者もいた。

老人に「変身」した男。

彼に降りてきたのは猛虎だろうか。

 虎や剣士のような「真面目系」の変身の合間に、老人やヘビといった「コミカル系」が挟まるところが、この祭りのユニークなところだった。もちろん本人はいたって真面目なのだが、腹の出たおっさんがカエルに変身してぴょーんぴょーんと飛び跳ねている姿には、会場のあちこちから笑いが漏れていた。

こちらはカエルのようだ。

 仏像に向かって突進し、正気を取り戻して帰ってきた男たちは、しばらく間をおいてから再びトランス状態に入るのだが、それまでに要する時間――つまり魂の再チャージに要する時間――は人それぞれだった。5分と経たないうちに再び「ウォー」と始める人もいれば、1時間以上かけてじっくり力を溜め込む人もいる。火山と同じで、頻繁に爆発を繰り返す人は一度に発散するエネルギーが小さいのだが、滅多に爆発しない人が暴れ始めると、手が付けられないほど凶暴になるのだった。

 面白いのは、その「再チャージ」のあいだに一緒に来た家族と普通に話をしている男がいたことだ。さすがに会話の内容まではわからなかったが、トランス状態から醒めたばかりの男が「今のどうだった?」という感じで、隣に座っている奥さんに話し掛けているのはかなり不思議な光景だった。

 こういう姿を見ると、「こいつはトランス状態になったフリをしているだけではないのか?」という疑問が湧いてくる。実際、トランス状態になった男たちをじっくりと観察していると、それぞれのテンションに違いがあることがわかる。本当に狂っている人は、やはり人間とは違うなにかが乗り移ったような危ない目をしていて、周囲に何があろうとも一切意に介さずに、ひたすら仏像だけを目指して突進していた。しかしトランス状態の度合いがやや低い人は、目の前に人がいるとちゃんと避けて走っていたのである。


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