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  たびそら > 旅行記 > インド編(2012)


 数年前まで、バイクに乗るインド女性はほとんどいなかった。バイクとはあくまでも男の乗り物であり、女性は夫(または父親)の運転するバイクの後部座席におとなしく座っているしかなかったのだ。「女がバイクに乗るなんてはしたない」という保守的な価値観も強かったのだろうし、そもそも女性には自分のバイクを買えるだけの経済的な余裕なんてなかったのだ。

 そうした状況が変わってきたのは、インドが急速に経済成長を遂げているからだ。女性ライダーが特に目立っていたのは南部のケララ州だった。教育レベルが高く、出生率が低く、経済的に自立した女性が多いケララでは、女も男と同じようにスクーターに乗って通勤・通学するのが当たり前になっていた。

乗りやすいスクーターは若い女性たちの新しい「足」になっている

 バイクや自動車を運転する人が増えたことで、ガソリンスタンドも飛躍的に数を増やしている。5年前はガソリンをペットボトルに詰めて売る屋台があちこちで見られたのだが、今では相当な田舎に行かないと見られなくなっている。農村地帯にも次々と立派な屋根付きのガソリンスタンドが作られ、みんなそこで給油するようになっているのだ。

田舎にも新しいガソリンスタンドが続々とオープンしていた

田舎に行けばこうしたペットボトル入りのガソリンを売っているところもある。質が悪いという評判もあるので、なるべくなら利用しないほうがいい。

 ATMもこの数年で一気に普及したもののひとつだ。もはや「ATMが置かれていない町はない」と断言してもいいぐらいだ。「無人」のATMも増えた。これまでは盗難防止のためにATMのそばには必ず警備員がついていたのだが、もう必要ないと判断されたのか、防犯カメラだけのATMが多くなっていた。

とんでもない田舎町にもちゃんとATMが設置してあるのには驚いた。

 酒屋もよく見かけるようになった。特にケララ州やカルナータカ州、パンジャブ州などには「WINE SHOP」という看板を掲げた酒屋が目立つ場所に何軒も並んでいた。

 インド人はもともと禁欲的だった。肉食はダメだし、婚前交渉もタブーで、アルコールも御法度。もちろんそれぞれに抜け道はあるのだが、基本的には欲望を抑えることで社会の安定を保っていた。莫大な人口を養うためには、どうしてもそれが必要だったのだろう。

町で酒屋を見かけることも増えた。

ウィスキーを炭酸飲料で割って飲むのが一般的。

 しかしグローバル化する資本主義経済の一員になったことで、インド人も消費の快楽に目覚め、欲望を解放することに罪悪感を持たなくなった。「必要悪」とみなされ、鉄格子に覆われていた酒屋が、オープンでカジュアルなものになり、「悪人の吹きだまり」みたくやたらと暗かったバーも、明るい雰囲気に変わっていた。


 インドは変わりつつある。
 グローバル化の波をもろにかぶり、保守的な社会が大きく揺さぶられているように見える。

 しかし何年経ってもまったく変わらないものもある。
 たとえば素焼きの壺づくりはインド各地で見られるものだが、その製法は何十年も前からまったく変わっていない。木の棒で粘土を叩いて形を作り、筆で絵付けをしてから窯で焼く。











 職人の手で丹精込めて作られた日常使いの安い壺は、いつか粉々になって土に還っていく。それがまた誰か別の人の手で、別の壺に作り替えられていく。こうしたことを何百年にもわたって延々と繰り返してきたのだろう。


 タミルナドゥ州にあるマッチ工場も、昔ながらのやり方を変えていなかった。僕は5年前にも同じ工場を訪れたのだが、まるでここだけ時間の流れが止まっているかのように、まったく同じ作業を行っていた。

牛の図柄のかわいらしいマッチは、今もなお手作りで製造されている。





「でもね、あと何年この工場が続けられるかわからないよ」とオーナーは言った。「使い捨てライターが普及したせいで、マッチの需要は減っているからね。でも、できる限りやるさ。ここはマッチの村だからね。マッチ作りがなくなったら、村人は何をしていいのかわからないよ」


 インド女性の美しいサリー姿も長いあいだ変わらないもののひとつだ。他の国でこれだけ洋装化が進んでいるのに、インド女性は頑なまでに自分たちのスタイルを守り続けている。それが美意識というものなのだろう。

 インド人は焦らない。血眼になって流行を追いかけたりはしない。何年も何十年も同じ仕事を続けて、日々を生きている人が何億人もいる。人々の暮らしは大河ガンガーのようにあくまでもゆったりと流れている。

 本当に大切なものは、変わらない部分にこそ隠されている。
 100日に及んだインド一周の旅を終えて、僕はそう感じた。

 簡単に変わってしまうのは表層的な部分であって、長い時間をかけてゆっくりとしか変化しないものの中にこそ、その地域特有の文化の本質が潜んでいるのだと思う。

 僕らはどうしても「変化するもの」に目を奪われがちだ。止まっているものにではなく、動いているものに目が向くのは、人の自然な習性だから。「ニュース」という言葉に端的に表れているように、メディアの興味の対象も「何か新しいこと」「変わったこと」に向けられる。何も変わらないことにはニュースバリューはない。

 しかし変化を追いかけるばかりでは、ものごとの本質は見えてこない。真実はいつも「変わりゆくもの」と「変わらないもの」の狭間に隠されている。







 100日を超えるインド一周の旅を終えても、インドという国が深く理解できたという実感はなかった。むしろ以前よりわからないことが増えたような気がする。

 やはりインドは奥が深い。
 旅をすればするほど謎と疑問が増え、もっと深く知りたくなる。
 それがこの国の魅力なのだと思う。


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