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「ダッカはバイク向きの街じゃないよ」
 バイク屋のキビリアさんは最初にそう釘を刺した。バイクに乗ってバングラデシュを旅するのはいいけど、ダッカの街だけはお勧めできない。特に細い道が入り組んだ旧市街を走るのは、よほど慣れた人でない限り避けた方がいい。そうアドバイスしてくれたのだ。

[動画]混沌の町・ダッカ

 実際に走ってみると、すぐにそれが事実だとわかった。バイクでダッカの街を走るのは苦役に近かった。どこへ行ってもストレスの種に事欠かないのだ。まず初めに直面させられるのがダッカ名物の大渋滞である。大通りは比較的流れているが、マーケットの近くや旧市街の細い道に入り込むと、たちまち慢性的な渋滞に巻き込まれてしまう。10分以上まったく動かないことも珍しくない。

 充満する排気ガスで目や喉をやられてしまうし、止むことのないクラクションノイズは神経を苛立たせる。容赦なく照りつける日差しは頭をクラクラさせる。ドライバーたちはルール無用の身勝手な運転ばかりするから、一瞬たりとも気を抜くことはできないし、まさかと思うようなタイミングで道路を渡る歩行者にも注意を向けなければいけなかった。

[動画]バングラデシュの交差点を歩いて渡ってみる

 交差点で待ち構えている物乞いたちにも困った。ダッカの路上には多種多様な障害を持つ物乞いたちであふれているのだが、彼らもまた珍しい外国人を見つけると砂糖壺に群がるアリのように僕のまわりに集まってくるのだ。地面を這うように進む両足と片腕のない男。顔が象のように膨れあがった女。杖をついた盲目の老人。ボロボロの服をまとった子供たち。彼らは一様にソフトタッチである。哀れみを誘うように僕の腕をやさしく撫でるのだ。もし「金をくれ!」と腕を捕まれたりしたら、「やめてくれよ」と振り払うこともできるのだが、「旦那、お恵みを」という低姿勢で来られるとどうしていいかわからなくなってしまう。きっと物乞いたちもそのあたりの心理の綾を熟知しているのだろう。

ダッカの旧市街は常にリキシャで渋滞している

 ダッカはバイク向きの街ではない。それはよくわかった。しかしだからといって、他の何に向いているわけでもなかった。バスや車はすぐに渋滞につかまって身動きがとれなくなるし、庶民の足であるリキシャは細い路地で大行列を作っている。独立した歩道もほとんどなく、横断歩道すらないから、歩くのにも向いていない。ダッカは「こういう街にしたい」という具体的なビジョンが見えない街なのだ。ただ闇雲に膨張し、行き場を失っている。出現したのは無為無策の結果としての悪夢的カオスである。


 混乱の原因は、さまざまな乗り物が同じ道を走っていることにあった。リキシャ、ベビータクシー、バス、トラック、バイク、自家用車。そこに大量の荷物を載せた荷車や、道を横断する歩行者や、山羊や牛などの家畜が混じっている。この混沌とした道を走るために必要なのは自己主張である。常にクラクションを鳴らして自分の存在を周囲に知らせながら、空いたスペースにすばやく車体を滑り込ませ、少しでも前に行く。そうしないといっこうに前に進めないのだ。実際、バスはどんどん幅寄せしてくるし、ベビータクシーも隙あらば追い抜きをかけてくる。ここには「流れ」のようなものはない。あるのは混沌だけ。この混沌を自分の力で泳ぎ切らなければいけないのだ。


 ベトナムのホーチミン市と比べると、その違いは明確である。行ったことがある人はわかるだろうけど、ホーチミン市のバイクの量は半端ではない。とにかくどこを見てもバイクだらけである。まるで魚の群れのように隙間なくびっしりとバイクが並んで走っている。この中に混じって走るなんてとても無理だ。僕も最初はそう思った。しかしいざやってみると、案外簡単に走れたのである。8割以上がバイクなので、みんなの動きに合わせていれば衝突する危険は少なかったのだ。大切なのは「流れ」を読み、その一部になること。回遊するイワシの群れの一匹になってしまえばいいのである。

ベトナムのホーチミン市の道路。ダッカと違ってほとんどがバイクである。

 交通ルールが守られていないことも、ダッカの混乱に拍車をかけていた。一応交差点には信号があるのだが、誰もそれを守らないので、警察官がドライバーを警棒で叩いて指示に従わせているという有様なのだ。もし市民全員がきちんと交通ルールを守り、フライングや逆走や無駄な追い抜きをしなければ、今あるインフラでも倍の交通量がさばけるに違いない。でもそれが不可能であることは、ダッカに住む誰もが知っている。バングラ人に路上での譲り合いやルールを守ることの大切さを説いても鼻で笑われるだけだ。「君の言う通りかもしれない。でも今のダッカでそれをやったら、1センチも前に進めないぜ」


 渋滞した交差点で右折しようとするバスを見かけたことがある。本来なら警官の指示に従って、対向車線を直進する車が途切れたところで右折を始めればいいのだが、自己中心的なバスの運転手はそれをしないで見切り発車してしまった。彼はほんのわずかな隙間があれば、そこに突っ込まずにはいられない典型的な「エゴドライバー」なのである。

 しかし彼の行為は完全に裏目に出た。予想通り、バスはあえなく立ち往生してしまったのだ。現場は大混乱に陥り、事態は坂道を転げ落ちるようにどんどん悪くなっていった。バスが対向車線をふさいだために渋滞はさらに伸び、それによって苛立ったドライバーがまた自己中心的な行動を取り、それがまた新たな混乱を呼ぶ・・・終わることのない負のスパイラルに突入したのだ。 

 誰かがルールから外れて抜け駆けすることで、一時的には自分だけが得をするような状況があったとして、それによって社会全体のパフォーマンスが下がることになれば、そのしっぺ返しは確実に自分にもはね返ってくるのだ。ドライバーさんよ、どうしてそのことに気付かないんだ?


 山本七平が「日本人とユダヤ人」の中で、<日本人の協調性の高さは、ある期日をもって全員が同じ作業を行う稲作を長年に渡って続けてきたためだ>と書いていた。それを読んだときは「なるほどそうか」と納得したのだが、よく考えてみるとバングラデシュも稲作の国なのである。農村の村人はやはり全員で同じ作業をしている。にもかかわらずダッカの交通カオスを見る限り、バングラ人には公の場における協調性が著しく欠如しているように思われる。

 バングラ人は「相手の都合よりもまず自分の都合を押し通す」傾向が強い。少なくとも顔見知りばかりの村社会を離れて都会に出ると、手前勝手な行動を取るようになるようだ。譲らない、待たない、並ばない。だから「農耕民」と「遊牧民」や、「稲作民」と「麦作民」という単純なくくりだけである民族の性質を語るのには無理があると思う。


ダッカの交通カオスは陸上だけにとどまらない。ブリゴンガ川を渡る渡し船もご覧の通り大混雑。さすが人口1500万の都市。スケールが違う。

 ダッカで読んだ英字新聞の中に「ダッカは人をミルする街である」という表現があって、なるほどなぁと思った。動詞のMillは「臼で粉に挽く」という意味だ。いつもどこかで車や人がぶつかり合い、削り合い、神経をすり減らしているこの街にぴったりの表現である。

 実際、ダッカを走るバスの横っ腹は傷だらけだ。これはいわばドライバーにとっての「名誉の負傷」。彼らがいくら超絶的な車両感覚とドライビングテクニックを持っているとしても(実際持っているのだが)、隣の車との距離がわずか数センチしかなければ、お互いのボディーを傷つけ合うのは避けられないのだ。

ダッカを走るバスの横っ腹には必ず傷がついている。

 僕はダッカには住めない。それだけははっきりとわかった。ただ移動するだけで神経をすり減らし、ぐったりと疲れてしまうのだ。旅人としてたまに訪れるだけなら刺激的で面白いのだけど、毎日この街でミルされるのはご免だ。

「俺だってうんざりしているんだよ」と30年以上ダッカで暮らしているバスの運転手が言った。「でも他に行く場所もないから仕方なくここに住んでいる。少なくともダッカには仕事があるからね。渋滞を解消する方法はないのかって? そんなものあるわけがないじゃないか。雨季になったら毎日雨が降るのと同じことだよ。雨降りを止める方法がどこにもないように、ダッカの渋滞をなくす方法なんてないんだよ」


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