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  たびそら > 旅行記 > バングラデシュ編(2013)


弱肉強食の世界


 イスラムの犠牲祭「コルバニ・イード」の午後には、貧しい人々が牛肉のおこぼれを求めて、街のあちこちで行列を作っていた。コーランには「犠牲となった牛の肉は、牛を買った家だけでなく、貧しい人々にも分け与えなさい」と書かれている。犠牲祭は貧しい人々にとっても牛肉にありつける数少ないチャンスなのである。

おこぼれ肉を求めて、お金持ちの家に集まる人々



 いつもはモスクの前で喜捨を待っている物乞いたちも、この日ばかりは肉を求めてお金持ちの家の前に殺到していた。両足がない者。両手がない者。せむし。極端に身長が低い者。巨大なこぶを抱えた者。形容しがたい皮膚病に冒された者。様々な障害や病気を抱えた人々が、狭い道にどっと押し寄せてくるのだ。

お祭りの日にもかかわらず、いやお祭りの日だからこそ、「持てる者」と「持たざる者」との格差が残酷なまでにクローズアップされる。

 お金持ちからの「おすそ分け」を求めて肉に群がる人々の姿は、まさに「弱肉強食の世界」そのものだった。この競争にルールはない。とにかく1ミリでも先に肉に手を伸ばした者が勝ちなのだ。女だろうが子供だろうが老人だろうが病人だろうが一切関係ない。当然のことながら、そこには大混乱が引き起こされることになる。

 ある商店の軒下で「おすそ分け」が行われていたときには、あまりにもたくさんの人々が殺到しすぎて、軒を支えている竹の支柱がぐしゃっと折れてしまった。軒には昨日降った雨水がたまっていて、支柱が折れると同時にその水が人々の頭にざーっと降り注いだのだった。

【動画】肉を求めて集まった人々に降りかかったアクシデント

 コントじゃないか。
 そばで見ていた僕は、誰かが筋書きを書いたとしか思えないようなベタな展開に思わず吹き出してしまったのだが、肉を求める人々の闘争心は水を被ったぐらいで消えることはなく、すぐに気を取り直して獲物に突進していくのだった。強い。そしてたくましい。

「なるほど、これがバングラ人スピリットってやつなのか」
 僕は深く納得した。

 普段は気さくでフレンドリーな人々が、ひとたび車のハンドルを握るとなぜあれほど自己中心的に振る舞うのか。銀行でも役所でも駅の窓口でも、列に割り込もうとする人が絶えないのはなぜなのか。バングラデシュという国に来るたびに感じる数々の疑問に対する答えが、この光景の中にあったのである。

 バングラ人の体に深く染みこんでいるのは、他人との競争である。とにかく人口が過密で、何をするときにも隣に他人がいる環境で育ってきた人々には、「譲り合い」なんて悠長なことを言っている余裕はないのだ。「お先にどうぞ」なんて言っていたら、いつまで経っても自分の番は回ってこない。パイは分け合うのではなく、力尽くで奪い取るものなのだ。



 生きるためには、人よりも先にあの肉を掴むしかない。
 肉に殺到する人々の表情は真剣そのものだった。だからこそある種のおかしみを感じないわけにはいかなかった。

 生きることへの執念と、壮大なエネルギーの浪費。
 それこそがバングラデシュがバングラデシュたる所以なのだ。

 肉の奪い合いはお金持ちの家の前だけではなく、ゴミ捨て場でも行われていた。物乞いの老婆が肉の一片でも手に入れようと、カラスや野良犬を相手に闘っていたのだ。

牛糞の中から肉の切れ端を探し求める



 ゴミ捨て場に置かれているのは内臓、それも茶色い糞が詰まっている腸の一部ぐらいなので、食べられる部分なんてまったくないように見える。それでも老婆は諦めなかった。腰を深く折り、文字通り血眼になって、ゴミの山の中から食べられそうな肉片がないか探し求めていた。

 その姿には「食えるものなら何でも喰ってやる」という執念が宿っていた。その執念によって、彼女はこのタフな世界を今日まで生き延びてきたのだ。

「我々も牛も同じように血と内臓と糞がつまった袋でしかない」
 それがコルバニ・イードを通じて僕がもっとも強く感じたことだった。貧しき者も富める者も、人も牛も、結局は肉と内臓のかたまりとして死を迎えねばならない。この冷徹な事実をまざまざと見せつけられたのだ。

 会社を経営する金持ちも、内臓のひと切れを求めてゴミの山を漁る老婆も、たまたまここにやってきた日本人も、いつか必ず死ぬ。その運命から逃れることができないという点で、我々は平等なのである。







イスラムを捨てた男

 人口の16%を占めるヒンドゥー教徒は別にして、コルバニ・イードに表立って反対する人はほとんどいなかった。犠牲祭は世界中のムスリムが行う儀式であり、牛の犠牲は必要だというのが一般的な意見だった。

「イードなんて必要ない」と言うハッサン君
 しかし26歳の大学生ハッサン君は違った。「イードなんて必要ない」ときっぱりと言い切ったのだ。
「あんなにたくさんの牛を一度に殺す必要がどこにありますか。残酷だし、お金の無駄遣いでもある。10万タカもする牛を買うお金があるんだったら、そのお金で貧しい人々に食べ物をあげた方がよっぽど世の中のためになるじゃないですか」

 イードで殺された牛の肉は貧しい人にも分けられるが、実際にはその量は微々たるもので、肉の大半は牛を買った家で食べている。それに牛は食料としての効率がきわめて悪い。10万タカ出せばいったいどれほどの量のお米が買えるか考えて欲しい、とハッサン君は言うのだった。

「ダッカにはたくさんのホームレスがいます。彼らが貧しい暮らしを送っているのは、能力がないからではありません。この国のシステムが悪いせいなんです。まともな教育を受けられず、物乞いでしか生きていけない人がたくさんいる。その一方で豪邸をいくつも持っているお金持ちもいます。システムが間違っているのです」

 彼の意見はうなずける部分が多かった。確かに犠牲祭は牛肉という「富」を貧しい人々に再分配するひとつの方法ではあるのだが、その効率が悪すぎるのである。わずかな牛肉が手に入ったからといって、ホームレスたちの貧しい生活が改善されることにはならない。結局のところ、コルバニ・イードは「お金持ちの無駄遣い」でしかないのではないか。この批判に正面から反論するのは難しいように思う。







 ハッサン君が犠牲祭に反対していることにも驚いたが、次の一言にはもっと驚かされた。
「僕は無宗教なんです」と言ったのだ。
 最初は聞き間違いだと思った。しかしそうではなかった。彼は「どのような神も信じていない」と言い切ったのだ。

「僕の家族は全員ムスリムです。でも僕はイスラムを捨てました。今は神の存在も創造主も信じてはいません」
「それはお父さんもお母さんも知っていることなの?」
「ええ、彼らにも告げました。僕はイスラムを捨てる、と。もちろん大反対されました。父親はとても腹を立て、母親は口をきいてくれなくなりました。だから何年も実家には帰っていません。友達も離れていきました。ある友達は『そんなことを言っていたら天罰が下るぞ』と僕を脅しました」

 この国で「宗教に属さない」というのは「どのコミュニティーにも属さない」のと同じである。家族との縁を切り、友達からも孤立する。それを覚悟した上で、彼は無宗教であると宣言したのだ。よほど強い思いがあるのだろう。

 ハッサン君が宗教を捨てたのは、大学で数学と物理を学んだことがきっかけだった。西洋の合理主義的な考え方を学び、哲学書も読むようになった彼は、やがてイスラムの教えそのものにも疑問を感じるようになった。創造主がすべておつくりになったのなら、その創造主を作ったのは誰なのか。論理的に考えて矛盾が多すぎるコーランを丸ごと信じることなどできない。それが彼の結論だった。

 ハッサン君は近代的自我を身につけたことによって、宗教の縛りを自らほどいたのである。脱宗教化が進んだ日本ではごく自然に受け入れられる彼の行動も、バングラデシュではきわめて特異で、異端と言えるものだ。無宗教を貫くためには、家族と友達を捨てる覚悟が必要だったのである。

「僕の考えを受け入れる人が少ないのは知っています。悲しいことだけど仕方ありません。でも僕は信じているんです。いつかきっと父親も母親も僕を理解してくれると」


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