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■ 引きこもりニート歴10年の僕でも、旅で自分を変えることができる?


はじめまして、漠然とした質問があります。
テーマとしては自分が一人旅をするメリットの有無についてです。
以下についてYESであると推測されれば、自分の中でメリットと見做し、一人旅をしてみたいと思います。
また内容が漠然としてますが、推測可能者としてこれまでの質問履歴の拝見から三井さんの分析力の高さが伺えましたので、お手数ですがそのまま質問させて貰います。

質問
一人旅をする事で考え(人生観等)は変わりますか?
上記がYESの場合、それにより生きやすくなりますか?

生きやすさの定義は、日々の社会生活の中で起きる問題を自分で解決出来、更に自分にとって適当なポジションを見つける事を可能にするとします。
自分としては一人旅は多くの体験により自分自身を含む物事に対する客観的な解釈能力及び問題解決能力や対人能力を育み、それが生きやすさに繋がるのではないかと期待してます。

また長くてすみませんが自分語りを補足させて貰います。
自分の履歴として、約14歳から23歳までガチで引きこもりをしていました。
生活スタイルとしては基本はネットサーフィン・ネットゲーム・読書・音楽鑑賞・炊事手伝いが主となります。
しかしいずれは自立生活(金を稼ぐ)を送らなければなりません。しかし地頭と一般・専門知識と全てが欠如していた為か、自分では何も解決出来ませんでした。
(当時は外に出てアルバイト等をする事は心情的に出来ませんでした。アフィリエイトやオークション等をやりましたが、純利益は月のおやつ代程度でした。)
また中卒という学歴も気になりましたので、取り敢えずやる事が無い為高認を独学で取りました。しかし大学は行っておりませんし、予定も現在ありません。
現在は24歳で親から幸い稼ぎの可能性となる道を提供されまして、その為にとある資格学校へ通い勉強をしています。また簡単な事務的な手伝いをしています。

しかし問題点として、親から提供されたその道に非常に依存気味である事に不安を感じます。
つまり未だ自分の頭では何一つ解決出来ず、盲目の状態で学校に通っているのです。
長い引きこもり期間が視野狭窄にし問題解決能力や対人能力を育まず、社会適応能力たるものが明らかに欠如してるのではと感じてます。その証明として友達も一人もいません。
そこで引きこもり期から「たびそらHP」を度々拝見してまして、勉強の余暇に一人旅をしようか考えてました。
そこで最初の質問に舞い戻ります。

長くなりすみません。三井さんから見てどう思われますでしょうか?
自分が一人旅をしても時間と金の無駄か、それともメリットを感じるか・・・
よろしくお願いします。


■ 三井の答え

 26歳の時、僕が初めて旅に出たのは「自分にとってメリットがある」と思ったからではありません。ただ旅に出たかったから出た。それだけです。結果的には旅に出たことによって、今こうして写真家として暮らしているわけですが、旅に出る前の時点で「帰ってきたら自分はこうなっているはずだ」という予想などまったくできませんでした。

 そもそもやる前から結果がわかっているようなものは「旅」とは呼べません。それはパッケージされた旅行商品です。何が起こるかわからないのが「旅」なのです。先が見えないから不安で、一人でいるから孤独で、しかしそれを乗り越えたときに得られる喜びは何物にも代えがたい。一人旅とはそういうものです。

 旅に出て何かを得る人もいるし、何も得られない人もいるでしょう。それは一般化できるものではありません。少なくとも僕にとって26で旅に出たことが、その後の人生を変えるターニングポイントになった。でもそれが他の人にも当てはまるわけではありません。たまたま僕は旅との相性が良かったのでしょう。

 しかしとにかく旅に出てみないことには何も始まらない。それは人生と同じです。まずはサイコロを振ってみないことには、どんな目が出るかわからないのです。

 人生は一回きりです。失敗しても後戻りはできない。それがルールです。「メリットとデメリットを天秤にかけて、メリットが多い方を選択する」というような判断ができないのが人生というものです。恋愛だって就職だって結婚だって子育てだって、およそ人生の重大事というのは、「やってみなきゃ結果はわからない」ってことばかりでしょう。

 だからあなたのように「メリットがあればやる。なければやらない」なんて言っていると、結局何も決断できなくなってしまうのです。決断というのは理屈ではないのです。今の自分を変えられる勇気があるかどうかなのです。

 あなたの一番の問題は「自分のことがわかりすぎている」ことです。いや、「わかった気になりすぎている」のです。だから「頭でっかち」でちっとも行動が伴わない。「○○は俺に向いていない」「○○をやるには能力が足りない」そんな言い訳ばかりして、結局何もしないまま時間だけが過ぎていったのです。

 僕は何もわかっていなかったから、写真家になることができたのです。もし写真家になるのがいかに大変で、どれほど狭き門なのかがわかっていたら、やる前から諦めていたでしょう。何もわかっていない人間は恐れるものもない。「わかっていない」というのは若者の特権なのです。

 あなたは自立できない理由を『地頭と一般・専門知識と全てが欠如していた為か、自分では何も解決出来ませんでした』と書いているんだけど、これはウソです。あなたは頭がいいし、ネットや本から様々な知識を得ている。けれど、それを使って社会に出て行動する勇気がない。どうしてかはわかりません。いじめられた経験があるのかもしれないし、対人関係でトラウマのようなものがあるのかもしれない。

 とにかく、あなたにはちゃんと能力がある。その証拠にこうしてまとまった文章を書けるじゃないですか(少々くどくて理屈っぽいところはあるけど、言いたいことはきちんと伝わってきます)。

 あなたは自分がバカではないことを知っている。それどころか心の底では周りの人間を見下してもいる。人一倍プライドが高くくせにひどく臆病で、失敗することを極端に恐れている。だから友達ができないんです。

 そう、あなたは失敗するのが怖いのです。そりゃ失敗が好きな人間なんていませんが、それにしてもあなたの怖がり方は度が過ぎます。まるで無菌状態で育てられた子供が、ばい菌だらけの外の世界を恐れているかのようです。

 あなたにも薄々わかっているはずですよ、自分自身の問題が。
 今の頭でっかちで退屈な自分を、本当は変えたいんでしょ。
 だから旅をしてみようと思ったんでしょ。
 それは理屈じゃなくて、あなたの心の奥底から発せられたシグナルでしょ。叫びでしょ。
 だったらそれに素直に従うべきじゃないかな。

 あなたは一人旅に出るべきですよ。今すぐにでも。
 予定を決めず、なるべく下調べもせずに、どこかの国に行ってきなさいよ。つべこべ言わずに飛んでみなって。

 今のあなたを縛っているのは、あなた自身ですよ。そりゃ両親にも問題はあったかもしれない。学校にも同級生にも恵まれなかったかもしれない。でももう24歳なんだから、いつまでも過去にこだわっていても仕方ないじゃないですか。あなたができる最大の「復讐」というのは、社会とちゃんと関わりを持って生きられる一人前の大人になるってことなんだよ。

 旅に出ることによってあなたの人生観が変わるか変わらないかは、僕にはわからない。それはあなた次第です。
 でもね、少なくとも今のあなたの「行き詰まり」状態を打開するひとつの手にはなると思う。

 なぜなら、旅では必ず失敗するからです。あなたがもっとも恐れている失敗が、旅では心おきなくできるのです。どうです、素晴らしいでしょう?

 あぁ「失敗するぐらいなら、家に引きこもっていた方がマシだな」なんて思わないでね。旅先の失敗なんてたいしたことないんだから。別に人生を左右するわけではない。騙されたり、ボラれたり、道に迷ったり。そういう「プチ失敗」の経験をたくさん積んでくればいいんです。そうしたら「失敗のひとつやふたつ、たいしたことないんだな」ってことがわかってくるから。

 人生はロールプレイングゲームではありません。経験値を上げてレベルアップして戦闘能力が上がればサクサクッとクリアできるというような単純なものじゃない。不安にさいなまれたり、もがいたり、無駄な回り道をたくさんしながら、不格好に進んでいくものです。あなたはすでにずいぶん遠回りをしてきたけど、それだっていつの日か「あれは必要な回り道だったんだ」って思えるときが来るはずです。

 大切なのは、その小さな部屋の中で「ああでもない、こうでもない」と考えを巡らせることではない。自分の足で歩き出すことです。

 今のあなたにはそれができるはずです。なにしろもうすでに「たびそら」を読んでいるんだからね。

 健闘を祈ります。
 よい旅を。




■ 写真と記憶の違い


アメリカに単身留学中です。
質問の内容は、カメラのファインダー越しに覗いた風景。自分の目で実際に目の当たりにした風景。どちらのほうが美しいですか?また、なぜですか?

こ のように考えるに至った理由は、留学をしていることによって圧倒的な風景に飲まれる。そう言葉に表すのが一番しっくりくる、そんな体験をしたからです。今 までも日本にいたときに、この風景が綺麗だな。いつかまた思い出せたらいいな。そんな感想を抱いたことは何度かありました。富士山に登ったとき、何気なく 田舎の田園風景を眺めているときなどです。しかし、圧倒的自然にのまれる、という体験は今まで一度もありませんでした。おそらく他人にとっては気にも留め ない風景であったと思います。英語も分からず、勉強に励む一方でたまたま気分転換に散歩に出る。そんなときに見かけた見渡すかぎりのトウモロコシ畑。気が つけば10分では足りないほどの時間をいつの間にか過ごしていたと思います。なんでか携帯で写真を取って、いつまでも手元に残そうとは思いませんでした。 その後、幾月が経ち日々の忙しさにその思い出が埋没しつつあったとき、ふとその光景を思い出しました。鮮明でした。美化も少なからずされていたと思いま す。でも、そんな頭の風景に没頭できる。初恋で失恋をした彼女の顔より鮮明だっかもしれません。頭に浮かぶ風景、あるいは写真として切り離された風景。ど ちらも自分の記憶の中の風景と比べられ、様々な感情を想起させるのだと思います。叶わなかった初恋の彼女を思い浮かべて、自分を笑ったり、嬉しかったり、 悲しかったりするように。ここまで話を伸ばすつもりは無かったのですが、長くなってしまいました。

ファインダー越しの風景と、目の当たり にしている風景。どっちのが美しいですか?というこの質問。もし、目の当たりにしている風景をより美しい。そのように感じるならなぜ、写真で風景をとるの ですか?という質問につながると僕は思います。おそらく、自分のためではなく、他人のために、自分の感じた感動の欠片でも感じてもらえたら。そのような答 えを何処かで聞きました。今は精一杯で、自分のことに必死です。だから、他人と自分の得た感動を共有したい。というよりは、箱庭のように独り占めしたい。 そう考えてしまいます。

考えながら書いていると、自分言いたいことがまとまらないことがよくあります。考え事やまとめることは苦手というよりは、むしろ好きなのですが。回答をよろしくお願いします。


■三井の答え


  ご質問の趣旨がちょっとわからない部分があるのですが、あなたはおそらく「実際に目にした風景と、写真に撮った風景のどちらが美しいか?」という質問をな さりたいのだと思います。「ファインダー越し」と「ファンダーなし」を比べたら、そりゃ一も二もなくファンダーなしの方が美しいに決まっています。あんな 小さなのぞき穴から風景を眺めるよりは、そのままじかに見た方がいいのは誰の目にも明らかです。

 なので以降は「実際に目にした風景と、写真に撮った風景のどっちが美しいか?」という質問への答えを書くことにします。

  あなたも指摘しているとおり、実際に目にした風景は、記憶され思い出となる過程で美化されていくものです。あなたがいま想起できるトウモロコシ畑は、実際 に目にした風景とはかなり違ったものになっているはずです。でもそのときに感じた圧倒的な美しさ、心を激しく揺り動かされた記憶は、以前よりも鮮明になっ ている。

 記憶とはそういうものです。目にした風景を細部まで精密に記憶できる人はいません(サヴァン症候群の人の中にはそういう能力を 持つ人がいるようですが、それはまた別の話です)。記憶とは実際に目にしたものから不必要な情報を削り、大事だと思う部分を強調したもの、つまりきわめて 主観的な編集作業の結果なのです。

 しかも記憶された風景には、イメージだけではなく、そのとき感じた匂いや音、風が頬を打つ感触なんかが一緒に記憶されている。だから「写真」と「記憶」とが主観的な美しさを巡って争ったとしたら、「記憶」が圧勝するのは確実です。

 しかし、あなたの記憶はあなただけのものであって、誰とも共有することができません。いくら言葉で説明しても、あなたが感じた圧倒的な風景の美しさは、それを目にしていない人には伝わらない。実際、僕にはあなたが目にしたトウモロコシ畑の美しさがわからないのです。

 それに対して、写真には「伝える力」があります。シャッターチャンスを選び、対象を絞り、構図を限定することによって、伝えたい主題をより明確にすることができます。一瞬を切り取ることによって、その前後に流れている時間を想像させることもできます。

 そして写真は保存することができます。デジタルデーターとして記録された写真は、理論上まったく劣化せずに、半永久的に残すことができる。時空を超えて、百年後の人にもその風景を伝えることができるのです。それが僕が写真を撮る理由のひとつです。

 僕が今年旅したバングラデシュもミャンマーも、非常に大きな変化のただ中にいます。街の様子も、そこで生きる人々の姿も大きく様変わりしつつある。だからこそ、かけがえのない「今」を残したいのです。今ここにある姿を、後世に伝えたいのです。

  僕が自然や建物や遺跡などではなく、主に人を被写体に選んでいるのは、それがとても移ろいやすいものだからです。人は成長し、老い、やがて死んでいくし、 表情はそれこそ刻一刻と変化します。いま目の前にいる人のこの表情は一回限りのものであって、二度と同じものには出会えないのです。

 目の前の風景はいつか必ず失われてしまうもの。だから今残さなければ。
 そういう思いがあるから、僕はファインダーを覗いてシャッターを切るのです。




■ 写真家に必要な資格

世界をまわって風景を撮る写真家になりたい中学生です。
旅しながらまわって、発展途上国の人々の写真を撮って日本で集めた服などを現地で寄付もしたいです。寄付なども簡単にいってますが大変なのはわかっています。
気象予報士の資格を調べてみたらボランティア活動にも役立つと書いてあったので、発展途上国などでも役立つのかなと思ったので書きました。
写真家でもっていたほうがいい資格はありますか?


■三井の答え


 写真家に資格は必要ありません。僕も(普通運転免許以外は)これといった資格を持っていません。写真について学校で学んだ経験もありません。

 「写真家」とは資格ではなく、ただの名乗りなのです。画家やミュージシャンに資格が要らないのと同じです。ですからあなたも「今日から私は写真家なのだ」と名乗れば、すぐにでも写真家になれるのです。周りの人がそれを認めるかどうかは、また別の問題です。

 気象予報士は国家資格です。一生懸命勉強して、気象を予報できる知識を身につけなければいけません。それほど簡単なことではないでしょう。しかし日本の気象予報士の資格が、外国で役に立つかどうかは知りません。たぶんあまり役に立たないんじゃないかな。

  写真家に必要なのは、資格ではありません。写真には他人が決めた「正解」はないからです。より正確に言えば「正解は無数にあって、その場その場に応じた正 解を自力で見つけ出さなければいけない」ということになるでしょうか。「ここ試験に出ますよ」という部分にアンダーラインを引いて、それを丸暗記して穴埋 め問題に答える、というわけにはいかないのです。

 カメラを構えてシャッターを切るとき、写真家は自らの感性に従っています。誰かが「今がシャッターチャンスですよ」と教えてくれるわけではないのです。自分の頭で考え、自分の感覚で感じたものを、カメラを通じて表現するのです。

 そもそも写真家というものは「資格」というシステムには馴染まないのです。むしろ資格という他人から与えられる枠組みの外に飛び出していかなければいけない。

 「ただひとつの正解」というものがない曖昧でリアルな世界で、自らが出題者となり、この世界のありように疑問を投げかけ、それに対する自分なりの答えを導き出す。大げさに言えば、写真家の仕事とはそのようなものです。

  「写真を撮ること」と「外国で援助やボランティア活動をすること」はまったく別の活動です。だからそのふたつは切り離して考えた方がいいでしょう。あなた が将来、発展途上国での援助活動に携わりたいのなら、その分野に多くの人材を輩出している大学に行くことを考えましょう。専門技能を身につけてから青年海 外協力隊に応募するというのもひとつの方法です。

 中学生のあなたに今できることは、まずは英語を頑張ることでしょう。どのような分野に進むにせよ、外国で仕事をしたいのなら、英語ができるに越したことはありません。そして将来、一人で外国を旅するときに備えて、様々な知識を貪欲に吸収してください。



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