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家の壁の塗り替えも、ダサイン前の恒例行事である。
日本の大掃除のようなものだろうか。
 毎年十月に行われる「ダサイン」は、ネパール最大のお祭りである。ダサインは日本人にとってのお正月にあたるような祭りであり、その期間中は都会に住んでいる人たちもみんな故郷に帰省して、家族と一緒に過ごすのが習わしなのだという。だからダサイン前後はネパール全土で道路が渋滞し、バスは屋根の上までびっしりと人を乗せた状態で走ることになる。

 十日間にわたって続くダサインの期間中、もっとも盛り上がったのは八日目だった。
 この日の朝は、ナタを砥石で研ぐ音で明けた。刃渡り五十センチはあろうかという巨大なナタが、家の主人の手によってじっくりと研ぎあげられていた。主人は指先に力を入れ、ナタを砥石に強く押しつけて、シャリシャリシャリという音を立てながら刃先を研いでいく。ときどき目を細めて研ぎ具合を確認し、砥石に水を数滴垂らしてから再び研ぎ始める。シャリシャリシャリ。

 この大ナタによって切り落とされるのは、山羊の首である。ダサインにおける最大のイベントが、山羊を殺し、その肉を食べることなのだ。
 ネパールの農家では、それぞれ5頭から10頭ほどの山羊を飼っているのだが、ダサインではそのうちの一匹が選ばれて、首を切り落とされ、その日のうちに肉をカレーにして食べるのである。


 ナタの研磨が終わると、家畜小屋から山羊が引っ張られてくる。選ばれるのは、よく育った(おいしそうな)山羊である。この時点で山羊の命運はほぼ決していると言っていいのだが、村人たちによれば、山羊の側にも殺されるのを拒否する権利が与えられているという。

 男たちは連れてこられた山羊の背中に水をかける。もし、山羊が濡れた犬がよくやるように体をブルブルっと震わせてその水滴を弾き飛ばしたら、それが「どうぞ私を殺してください」という合図なのだという。つまり、水をかけられても体を震わせない山羊は、命が助かるというわけだ。



選ばれた山羊。数分後に命を奪われる運命にある。


 実際、背中に水をかけられた後の山羊たちの反応は様々だった。すぐに「ブルブル」と体を震わせる潔い山羊もいれば、何度水をかけられてもまったく動じない不感症気味の山羊もいる。後者の場合、つまり山羊が「私は死にたくありません」という合図を送っているときには、別の山羊に取り替えるのが筋なのだが、僕が見ている限りにおいて、山羊が取り替えられたことは一度もなかった。男たちは反応の鈍い山羊に水を何度もかけたり、顔や耳や足などに水をつけたりして、あの手この手で「ブルブル」を誘発させようとしていたのである。

 その結果、最後にはどの山羊も「はいはい、わかりましたよ」という感じでしぶしぶ体を震わせるのだった。その姿は、昼夜にわたるきつい取り調べの結果、やってもいない犯行を自白してしまった容疑者のようでもあり、何となく気の毒だった。

 山羊は大きなナタで一刀両断にされる。
 (この先の写真は、「グロテスクなものが苦手だ」という人はパスしてください)
 山羊のその後1
 山羊のその後2
 山羊のその後3
 山羊が「ブルブル」を行うと、男たちはすぐに首を切り落とす準備に取りかかった。その手順は極めてシンプルだった。一人の男が山羊の後ろ足を掴み、もう一人の男が角を掴んで、山羊が暴れないようにしっかりと固定する。そして主役である執行人の男が、山羊の頭上で大ナタを振り上げるのである。

 振り上げられた大ナタは、男の頭上でほんの一瞬停止する。長い時間をかけて磨き上げられた刃先が、強い日差しを受けて鈍く光る。男は呼吸を止め、両目をかっと見開き、渾身の力を込めて、一気にナタを振り下ろす。ズブンという鈍い音が響く。古いサンドバックを思いきり殴りつけたような重い音だ。

 その音と同時に、山羊の首は胴体からあっけなく切り離される。薄桃色をした切り口から、勢いよく血が噴き出す。先を細くしたホースから水が飛び散るように、細かな赤い粒となった鮮血が山羊の体から噴き出して、地面を赤く染めていく。男たちは用意していた金だらいで、即座にその血を受けとめる。溢れ出る血は、不自然なほど鮮やかな赤色をしている。頭を失った山羊は、それでも何かを訴えるように四本の足を激しくばたつかせている。男たちが四人がかりで、その最後のあがきを静めにかかる。

 胴体から切り離された頭の方は、若者の手によって家の玄関へと運ばれる。山羊の首からしたたる新鮮な血は、まず用意してあったトウモロコシの若葉に垂らされる。これには一年の豊作を願う意味が込められているという。それから、家の入り口の壁にも山羊の血を塗り込める。これは魔物が家の中に入ってこないためのまじないだという。

 このようにして一匹の山羊の首が切り落とされると、男たちは隣の家に行き、再び犠牲となる山羊を一匹選び出し、同じように首をはねていった。村中の家の山羊を一匹ずつ殺すのにかかった時間は、3時間あまりだった。


ダサイン前には髭をきれいに整える。



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