写真家 三井昌志「たびそら」 アジア旅行記 フォトギャラリー 通信販売 写真家・三井昌志プロフィール ブログ

 スリランカは他のアジア諸国と同じように、鉄道よりもバス網の発達した国である。スリランカのバスは大きく分けて二つのタイプがある。ひとつは近隣の町同士を結ぶ「ローカルバス」。これは走行中いつでも乗ったり降りたりできる「地元民の足」であり、そのために余計な時間を取られるのだが、本数も多くて料金も安いというのが特徴である。

 もうひとつは主要な町同士を結ぶ「インターシティーバス」。これは途中で乗客を乗せたりすることのない急行バスである。運賃はローカルバスの二倍ぐらいするのだが、その分エアコンが効いて快適で、目的地へも早く着くので、旅行者にとっては大変便利な乗り物である。

 僕がトリンコマリーから北部の町ジャフナに向かうときに乗るつもりだったのも、このインターシティーバスだった。ジャフナとトリンコマリーは、共にスリランカ北部の主要都市であるから、ローカルバスよりもインターシティーを使った方がベターだと思ったのだ。

 ところが、バスターミナルの切符売り場に行ってみると、「インターシティー? そんなものはないよ。ジャフナに行きたいのなら、ローカルバスを乗り継いで行ってくれ」と言われたのである。「でも行き方はよくわからんから、運転手に聞いてみてくれよ」とも言われた。変だなぁと思った。トリンコマリー・ジャフナ間は直線距離にして200kmほどの距離しかないので、その間をバスで移動する人間が少数だとは思えなかったからだ。

 僕は首をかしげながら、ローカルバスに乗り込んだ。まぁいいや。多少到着時間が遅れることになっても、たかが知れている。200kmしかないんだから、5時間もあれば着くだろう。そんな風に考えていた。しかし、これがとんでもなく楽観的な予測だった事が、後になって明らかになる。スリランカ北部の交通事情は、南部のそれとはまるっきり違っていたのである。

 朝の8時にトリンコマリーを出発したバスは、内陸にあるバブニアというジャンクションタウンに向かった。バブニアまでの道のりはひどい悪路だった。スリランカ南部の幹線道路は、どこもきちんと整備されていたのだが、それが北部に入ると、クレーター状の大きな穴があちこちに空いた未舗装のガタガタ道に変わったのである。そのせいで、わずか100kmほどの距離を走るのに、4時間もかかってしまったのだった。

 車内の環境もひどいものだった。ローカルバスにはエアコンはないので、窓を全開にして走るのだが、前方の車がまき散らす土埃が容赦なく入ってくるので、乗客はみんな「きな粉餅」みたいな埃まみれの状態になってしまったのだ。

 バブニアで乗り換えたバスも、別の意味でひどかった。こちらは東京の朝の通勤ラッシュ以上の混みようで、そのうえ道ががたがたなものだから、しょっちゅう誰かに足を踏まれたり(僕はサンダル履きだから踏まれると痛い)、天井に頭をぶつけたりした。どういうわけか、このバスは天井がすごく低かったのである。

スリランカでもっとも盛んなスポーツはクリケットだ。


 混み混みバスに三十分ほど揺られて辿り着いたのは、軍の検問所だった。大きなゲートが道を塞ぎ、その脇にマシンガンを肩に提げた兵隊がずらりと並んでいた。バスに乗っていた乗客は、全員ここで降ろされて、ボディーチェックと荷物検査を受けることになった。国際空港にあるのと同じ金属探知器を通り、ポケットのひとつひとつまで手を入れられ、バックパックの中身は全て外に出さなければいけなかった。

 何故これほどまでに厳しい検問が行われているのか。その理由は、ここが一種の「国境」だからである。
 スリランカはごく最近まで内戦状態にあった。全人口の74%を占める仏教徒のシンハラ人と、18%を占めるヒンドゥー教徒のタミル人が、国を二分して戦っていたのである。スリランカの政権を掌握しているのは多数派のシンハラ人なのだが、スリランカ北部に多く住むタミル人は「少数派の我々は、政府から不当な迫害を受けている」として、独立を目指す戦いを始めたのである。

 内戦は20年近く続き、数多くの死者を出した。ようやく停戦が合意されたのは二〇〇三年のことだった。その停戦合意に基づいて、スリランカ北部はタミル人武装勢力(LTTE)が支配する自治区と、スリランカ政府軍が支配する地域とに分断されることになったのである。

 現在、スリランカという小さな島国には、ふたつの軍隊があり、ふたつの行政府がある。タミル人自治区にはスリランカ軍は入れないし、シンハラ人支配地域にはタミル人武装勢力は入れない。そのような極めて複雑な状況にあるのだ。(たとえるなら、山形県が日本国からの独立を求めてゲリラ戦を展開し、独自の軍隊と警察を持って、県境を封鎖しているようなものである)

 この日、僕が移動していたのは、ちょうど「シンハラ人支配地域 → タミル人自治区 → シンハラ人支配地域」という異なる支配地域をまたぐルートだった。普通の国境警備よりもはるかに厳しい検問所を通り抜けなければいけなかったのは、そのような理由からだった。



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