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  たびそら > 旅行記 > インド編


 パンジャブ州を抜けてから急勾配の山道を登り、ヒマチャル・プラデシュ州のダラムサラに向かった。南インドを離れてから約2ヶ月。先住部族の住むデカン高原を越え、塩田の広がるカッチ湿地を走り、ラクダがいるタール砂漠を越えて、ついにヒマラヤ山脈の麓にまで足を踏み入れたのだ。

ヒマチャル・プラデシュ州の見事な段々畑

 標高1700mの高地にあるダラムサラはとても涼しかった。ここは19世紀にイギリス人がインドの暑い夏をやり過ごすために避暑地として使った町だが、今はチベット亡命政府が置かれた「ダライ・ラマが住む町」として世界にその名を知られている。

 急な坂道の多いダラムサラを息を切らせながら歩いていると、突然空から雨が落ちてきた。大粒の雨はやがて雷鳴を伴ってヒョウに変わり、絨毯爆撃みたいな激しい降りになった。ほんの30分前までは青空だったのに、この変わりよう。まさに青天の霹靂である。

 ホテルの従業員はなぜか嬉しそうだった。
「いやー、今日はいい日ですねぇ」なんて笑顔で言うのだ。
「どうして? 雨が降ってるのに」
「雨だから嬉しいんですよ。この2ヶ月間、僕らはずっとこの雨を待っていたんです」
 彼が言うには、ダラムサラではこの数週間水不足が深刻化していて、水を求める人が井戸の前に長蛇の列を作っていたとのこと。順番争いが喧嘩沙汰にまで発展したこともあったという。要するにこの雨はダラムサラの人々にとって「天からの恵み」だったわけだ。

 ダラムサラから国道20号線を東に進んでマンディまで行き、そこからクネクネと曲がりくねった山道を走り続けて、カルソグという小さな町に向かった。山岳地帯に住む人々は斜面を切り開き、段々畑を耕して暮らしていた。立つのもやっとというぐらい急な斜面にジャガイモを植えているおばさんもいた。狭い土地を有効に使うことで何とか生き延びてきたのだろう。

斜面にジャガイモを植えているおばさん

牛を使って畑を耕す

 泊まったのはカルソグの町はずれ(と言っても11キロも離れているのだが)に建つホテルだった。アップル・バレー・ホテル。その名のとおり、リンゴの木が何十本も植えられた農園の横に建つホテルだ。

 はじめは1200ルピーという(僕にしては)かなり高額の「マハラジャルーム」を勧められたが、
「この格好を見てよ。僕はマハラジャじゃない」
 と言って断り、一番安い部屋に案内してもらった。安いといっても部屋は広いし、シーツや毛布にもしみひとつなく清潔だった。中級ホテルの趣だ。電気温水器もちゃんと備えてあるし、バスタオルもトイレットペーパーもあった。言い値は500ルピー(1000円)だったが、400ルピー(800円)にまけてもらった。オフ・シーズンで泊まり客も他にいないようだったから交渉の余地はあると踏んでいたのだが、予想通りの結果になった。

 レセプション係兼ボーイのディアール君はとても愛想のいい若者だった。英語があまり上手くないのが難だが、それを補ってあまりあるほど素敵な笑顔の持ち主だった。

 このホテルの宿帳には「インドに何ヶ月滞在するつもりか」という欄があって、僕は「3ヶ月」と記入したのだが、
「たった3ヶ月ですか?」と驚かれてしまった。「ここに来る外国人はみんな6ヶ月と書くんですよ」と言うのだ。
 確かにインドの観光ビザは有効期間が6ヶ月もある。アジアでは異例の長さだ。この広い国をくまなく回るためには、最低でもそれぐらいの期間が必要なのだ。
 しかし現実問題として、6ヶ月もインドを旅する人なんて滅多にはいない。仕事をほっぽり出してきたか、モラトリアム中か、あてもなく撮影を続ける写真家か、いずれにしてもまっとうな社会人ではないはずだ。つまりここは、その「滅多にいない」旅行者だけが選択的に訪れるような辺鄙な場所なのである。

山羊の群れを追う男たち


 カルソグの朝は静かに明けた。ここがインドだなんて信じられないほどの静けさだった。ノートパソコンの放熱ファンが回る微かな音まで聞き取れるほど静かなのだ。

 インドの安宿は騒々しい。とりわけ朝がうるさい。隣の部屋のテレビの音や、向かいの部屋の話し声がガンガン響いてくるからだ。インドの安宿は防音よりも通気性に重きを置いて設計されているし(要するに隙間だらけなのだ)、インド人の宿泊客は寝るとき以外はいつもドアを開け放って過ごしているから(その方が涼しい)、音という音が全部筒抜けなのである。

 話し声ぐらいならまだいいのだが、聞いているだけで不快になる音というのもある。僕が一番苦手なのはタンを吐く「カーッペ!」という音である。一度や二度ならまだしも、ひどいときには何十回も連続で「カーッペ!」を続ける奴がいるのだ。アンタはそこまでして何を吐き出したいのか、逆に気持ち悪くなりはしないのか、一度じっくり問い詰めてみたい。

 タンやツバは吐くから吐きたくなるのであり、もし吐かなければ吐きたい気持ちにはならない、というのが僕の持論である。「世界一のタン吐き大国」として知られるあの中国でも、最近になって「人前でタンを吐くのは良くない」というマナーが浸透してきたおかげで、タン吐き人が目立って少なくなったという。タン吐きは単なる癖であって、それ自体には何の意味も必然性もないのではないか。

ロバに乗って移動する男たち

 タン吐き人のいないカルソグの朝はすがすがしかった。静寂とはインドにおける最高の贅沢だ。そんなことを思いながらうつらうつらと二度寝する。外はあいにくの雨模様。暗く冷たい雨が降りしきっていた。どうやらヒマチャル・プラデシュ州は一足早く雨季に入ってしまったようだ。

 目が覚めてからも、ベッドの上でテレビを見たりしてぐずぐずしていた。この雨の中バイクを走らせる気持ちにはなれなかった。
 インドのテレビ局も朝方は通販番組ばかり流していた。紹介されているのは「何でもたちどころに粉砕するジューサー」や「吸水性抜群のモップ」などおなじみの通販グッズだが、中には日本ではお目にかかったことのない怪しげな機械も売られていた。
 それは「アイマックス」という名前の大ぶりなアイマスク型の機械だった。「スタートレック」のクルーが着けているような近未来的なデザインだ。これを1日10分装着するだけで視力が回復するという触れ込みだった。磁気の力で眼球をマッサージして水晶体のゆがみを治すという理屈らしい。肩こりに対するピップエレキバンのようなものか。しかし磁力で近視が治るなんて(少なくとも日本では)聞いたことがない。かなりインチキ臭い。
 お値段は2375ルピー(4600円)。高すぎず安すぎず、絶妙なプライシングである。10日間は返品可能だという。しかし「効果は1ヶ月しないと現れないんですよ」なんて言われるんじゃないだろうか。

 日本であれば、こういう類の効果に疑問符の付く健康器具は、テレビで堂々と売られることはなく(たぶん薬事法に抵触するはずだ)、雑誌広告などで「効果には個人差があります」という小さな文字とともにひっそりと売られることになるだろう。背が伸びる薬、豊胸剤、痩せ薬、幸運を呼ぶブレスレット。そんなものと同列である。インドの広告業界はまだ規制が緩いのかもしれない。
 数ヶ月後には消費者からの苦情が殺到するも、すでに販売業者は雲隠れした後だった・・・なんて結末になりそうだけど、どうかな。

薪を背負って歩く女

「今日は雨ですね。出発はどうしますか?」
 朝食を持ってきてくれたディアール君が言った。雨はいっこうに止む気配がなかった。分厚い鉛色の雲が空を覆い、冷え冷えとした風が松の木を揺らしていた。
「もう一泊するよ。今日はずっと雨みたいだから」
「そうですか。でも明日は晴れますよ」とディアール君は笑顔で言った。「約束します。大丈夫です。明日は晴れです」
 たいした根拠があるわけではなさそうだったが、そんな風に言ってもらえるのは嬉しかった。

 ディアール君によれば、ヒマチャル・プラデシュ州の観光シーズンはインドがもっとも暑くなる4月から7月ごろだという。平地に住むお金持ちが避暑にやってくるのだ。首都デリーで40度を超える日でも、ここはエアコンはもちろんのこと扇風機さえ必要ないほど涼しいという。

 ディアール君はホテルの専門学校で1年間勉強した後、8ヶ月前にここで働き始めた。日給はわずか60ルピー(120円)。いくら客が3日に一度ぐらいしか来ない閑古鳥ホテルとはいえ、あまりにも薄給である。
「だから今月末にこのホテルを辞めて、別のホテルで働くことにしたんです。そこは三ツ星ホテルで外国人客も多いし、今の倍の給料がもらえるんです」

 彼はその三ツ星ホテルでホテルマンとしての経験を積み、それと同時に外国人と話す機会を増やして英語を上達させるつもりだという。確かに今の彼の英語力には大いに問題がある。語彙があまりにも少なく、会話のバリエーションにも乏しいので、ちょっと込み入ったこと(例えば「ホテルで働く前には何をしていたの?」とか)を訊ねると、途端に答えられなくなってしまうのだ。

 それでもホテルマンは彼の天職だと思う。彼の接客態度や話しぶりからは山岳民独特の奥ゆかしさや生真面目さがにじみ出ているように感じられるからだ。
 サービス業に就く人間がにこやかで丁寧なのは日本では当たり前のことだが、インドではまったくそんなことはない。本来サービスする側の人間が平気で客を見下すような態度を取ったりするし、小売業でも「買っていただく」ではなくて「売ってやる」という姿勢が基本なのだ。
 そもそもインド人には「お客にサービスする」という意識が希薄で、仕事は仕事として割り切っている人が多い。そういう人たちが「お客様は神様です」とか「お客様の笑顔を見るのが私の幸せです」などと言う日本人を見たら、心の底から驚くに違いない。


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