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  たびそら > 旅行記 > ネパール編


パイプを使ってタバコを吸うタマン族の女
 ネパールに住むモンゴロイド系少数民族の中でも、タマン族は特に貧しいことで知られている。標高2000m程度の農業にあまり向かない土地に住み着いていることが多く、電気や道路などのインフラが未整備で、学校教育も遅れている。他の民族と接する機会も少なく、今もなお自給自足的な暮らしを送っている村も多い。

 疑似セックスを伴った不思議な一周忌を行っていたパルチャン村も遠隔地にあった。標高2300mほどに位置する村では米を育てることができず、主食はトウモロコシやシコクビエの粉に水を加えて鍋で煮たものだった。栄養価はともかく、味はほとんどない。

 村人はタバコが大好きだった。男も女も大人も子供も、とにかくよくタバコを吸う。自分たちの畑で育てたタバコの葉を乾燥させ、細かく刻んでから手製のパイプに入れて吸っている。7、8歳ぐらいの女の子までがぷかーっと煙を吐き出しているのにはさすがに驚いた。ニコチン中毒の恐ろしさや肺ガンのリスクなんかは全く知らないのだろう。


牛を使って畑を耕すタマン族の男

タマン族の村には独特な形をした石造りのお墓が並んでいた。

 村には子守をする子供の姿が目立った。まだ5,6歳の子供たちが幼い乳飲み子をおんぶして、あぜ道を歩いているのだ。そうやって子守に追われる子供たちの多くは学校に行っていない。そもそもなぜ学校に通わなければいけないのかをちゃんと理解している親の方が少数派なのだ。

 学校に行かない子供たちを減らすために、村の小学校では無料で給食を提供するようになった。小麦粉とトウモロコシ粉に砂糖と食用油を加えて大きな鍋で加熱した「ハロア」と呼ばれる軽食を昼休みに出すことにしたのだ。茶色くてぼそぼそした見た目とは裏腹に、このハロアは意外にもうまかった。山の子供たちに不足しがちなビタミンAやDなどを補うという目的もあるが、まず何よりも甘くて腹持ちがするものを食べさせようと考案されたレシピのようだ。

制服を着て登校する子供たち

幼い弟を連れて学校に通う少女
 この給食プログラムはWFP(国連世界食糧計画)が農村の子供たちを学校へ通わせるインセンティブとして始めた。教育を受けることの具体的なメリットを見出せない村人に対して、「ただでご飯が食べられますから、とにかく来てくださいよ」というメッセージを送ったわけだ。

 その目論見は見事に成功し、学校に来る子供の数は一気に倍近くになったそうだ。実際には給食が終わると午後の授業をパスしてさっさと家に帰ってしまう生徒も多いのだが、それはそれで仕方がない、まず学校に行く習慣を身につけることが第一だと割り切っているようだ。

 しかしようやく学校に来るようになった子供たちの前には「言葉の壁」が立ちふさがっている。ネパールには共通語のネパール語とは別に、70以上もの民族語がある。タマン族はタマン語を話し、シェルパ族はシェルパ語を話す。もちろん自分の母語だけではなくネパール語も話せる人が多いのだが、パルチャン村のような遠隔地では今でも母語(つまりタマン語)しか話せない人の方が多数派なのだ。村の外に出る必要もないし、村の外から誰かを迎えることもない。そういう村人には母語だけで十分事足りるのだ。

 タマン語しか使わずに育った子供たちは、小学校で初めて習うネパール語に戸惑いを隠せない。日本語で育った子供が、小学校に入った途端すべての科目を英語で学びなさいと言われるようなもの。混乱するのも当然である。最初の段階でつまずいてしまい、学校に来なくなる生徒も多い。授業のレベルも低く、大声での暗唱と、宿題の確認に終始しているという印象だ。

 教える側にも大いに問題がある。小学校の先生はバウン(ブラマン)という上位カースト出身者が多く、彼らはタマン語を話せないのだ。そんなわけで先生たちはボディーランゲージを使いながらネパール語を教えているのだが、言うまでもなくこれはかなり非効率なやり方である。

 先生のモチベーションもとても低い。勤務態度も悪く、給料泥棒に近い人もいる。僕がパルチャン村の小学校を訪れたときも、三人いるはずの先生が全員欠勤しているという有様だった。一人は二日酔いで寝込んでいたし、もう一人は買い物をするために町に行っていた。校長はもともと週に2日ぐらいしか学校に顔を出さないという。無茶苦茶である。先生が不在のあいだ、生徒たちは自習することになっている。自習というと聞こえはいいが、要するにただ遊んでいるだけである。

 僕は「地球上のすべての子供が絶対に学校に行くべきだ」とは思わない。画一的な教育カリキュラムなんて必要ない。自分たちは自分たちのやり方で子供を育てるんだから放っておいてくれ。そう主張する人がいても構わない。もしその共同体が自給自足的な自前のエコシステムを持ち、人口が増えず、自然環境と調和した持続可能なのであれば、「うちには学校なんていらない」と胸を張って言ってもいいと思う。

 でもネパールの山村はそうではない。現実には、教育が普及していない村ほど子供の数は多く、増え続ける人口を維持するために森を伐採し、畑を広げすぎた結果、雨季のたびに大規模な地滑りが起こるようになっている。

 だから教育は必要だ。
 過去から学び、今を知り、来るべき未来を予測するために。
 何よりも彼らの独自の文化や暮らしを守っていくためにも、教育は不可欠なのだと思う。



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