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  たびそら > 旅行記 > ネパール編


 村の小学校に足を踏み入れたときの反応は、だいたいいつも決まっている。見慣れない外国人がやってきたことに驚いた子供たちが校庭を走り回り、それを先生にたしなめられて(ときには木の棒で威嚇されて)、ようやく教室へ戻るのだが、その後も「あのガイジン、なにしに来たのかなぁ?」という好奇の眼差しで、じっとこちらを見つめているのだ。まるで初めて動物園にやってきた珍しい動物を観察するような目で。


 ところがダーディン郡チョカデバザールにある学校では、そのようなお決まりの反応が一切返ってこなかった。子供たちは無言のまま、少し怯えたような目で僕をじっと見ていた。
「ナマステー」
 そう声を掛けても返事がない。あれ、おかしいな。
 そこでようやく気付いたのだった。この子たちは耳が聞こえないのだということに。

聾学校の子供たち

 そこは耳の不自由な子供を対象にした聾学校だった。生徒数は20人。全員が学校の隣にある寄宿舎に寝起きして、共同生活を送りながら、手話を習い、勉強に励んでいるという。どの子もここから遠く離れた村の出身なので、自宅から通うことができないのだ。

 先生に話を聞くことができた。ここで教えている手話はユニバーサル手話(国際手話)を元に、ネパール独自の言葉や表現を加えたものだという。いずれにしてもこの手話はごく一部の人間にしか知られていないし、それを教える学校も限られている。教える側にとっても、まだ試行錯誤の段階なのだ。

「一番の問題は、子供たちが心を閉ざしていることです」
 と先生は言った。聾学校にはじめてやってくる5,6歳の時点で、ほとんどの子供は言葉を使って人とコミュニケーションを取った経験がない。村に手話を操れる人はいないし、文字を書くことも読むこともできないから、意思を通じさせる手段がないのだ。自分の気持ちをわかってくれる人もいないし、自分の欲求を伝える術もない。親兄弟もどう扱っていいのか途方に暮れている。そうやって半ば放置されたまま育ったという子供たちがここへやってくるのである。

「子供たちはずっと『沈黙の時間』の中で生きてきたんです」と先生は言う。「そんな彼らを言葉のある世界に戻すのは簡単なことではありません。時間が必要なんです」
 実際、1年生のクラスには3週間前に入学してきたばかりの生徒がいたのだが、彼はほとんどの時間を机に顔を伏せたまま過ごしていた。たまに顔を上げることがあっても、先生や黒板を見ようとはせず、ただ虚空を睨むばかり。自分がなぜここにいるのか、何をするべきなのかさっぱりわからないという様子だった。一人の世界に閉じこもることに慣れ、自分が外の世界と繋がっているという実感を持てないでいるのだ。

ずっと机に顔を伏せたままだった新入生

「それでも3ヶ月もすれば,子供たちも徐々に心を開いてくるんです。だんだんと『自分が一人ではない』ということがわかってくる。同じような境遇の子供たちが周りにいる。そのことが力になるんです」

 上のクラスでは、手話を使った会話の練習風景を見ることができた。子供たちの手の動きはとても速く、表情も変化に富んでいた。彼らは長かった『沈黙の時間』を取り戻すように、熱心に語り合っていた。会話それ自体が楽しくて仕方がないといった様子だった。

手話を使って話し合う子供たち

 この聾学校は9年前に設立されたそうだ。首都のカトマンズには身体障害者を対象にした学校がいくつもあるのだが、町から遠く離れた田舎にこのような学校が作られた例は極めて珍しいという。

 しかし学校の経営は苦しい。障害を持つ子供には一人あたり月1000ルピーの手当が政府から支給されているが、それだけで食べ物や衣類や勉強道具などをすべてまかなうのは難しい状況だという。

 実際、子供たちが置かれている環境は恵まれたものではなかった。寄宿舎はとても狭く、部屋には二段ベッドがぎりぎり入るだけのスペースしかない。ベッドの上に敷かれた布団は何年も洗われていないらしく、ドス黒く変色している。部屋の中に充満する臭いもひどかった。もし自分がこの子たちの立場だったらとても耐えられないな、というのが僕の偽らざる印象だった。

寄宿舎はとても狭くて汚かった。

 自分になにかできることはないだろうか。僕はその場で考え込んだ。まったくの偶然とはいえ、聾学校の現状を垣間見ることになったからには、このまま何もしないで立ち去ることはできなかった。しかし現金を寄付するというやり方はできれば避けたかった。そのお金がどのように使われたのか、あとから確かめる術がないからだ。善意で寄付されたお金が適切に使われることなく役人や関係者のポケットに消えていくという例は、数え上げればきりがないほどこの国ではごくありふれたことなのだ。

 しばらく考えた末に、布団を買うことにした。寄宿舎のベッドに置かれていた布団はあまりにも汚かったし、それさえも生徒全員には行き渡っていなかったのだ。僕は近くのバザールに行って一枚600ルピーの布団を10枚買い(本当は20枚買いたかったのだが、在庫が10枚しかなかった)、寄宿舎に運び込んでもらった。それから文具屋に行ってノート20冊とペン20本を買った。

 校庭で遊んでいた子供たちにも「なにか欲しいものはある?」と訊ねてみた。すると男の子たちが穴のあいたサッカーボールを持ってきた。
 言葉で説明する必要はない。これじゃ遊べないよな。
 すぐに雑貨屋で新しいサッカーボールを買ってあげた。

 すると、それを見た女の子たちが破れたバレーボールを持ってきた。
 ごめん。男の子だけじゃ不公平だったよな。
 新しいバレーボールも買うことにした。
 どれもたいして高価なものではなかったけれど、子供たちは目を輝かせて喜んでくれた。


 ネパールの障害者が置かれた現実は、日本よりもはるかに厳しい。社会保障制度はお粗末だし、障害者同士の繋がりも薄い。特に田舎には「障害を持って生まれてきたのは、前世で悪い行いをした報いだ」という古い考え方も根強く残っているという。

 先生が語ったように、この聾学校は「踏み出したばかりの小さな一歩」に過ぎない。解決すべき課題はまだたくさんある。

 それでも厄介者として扱われ、家族とのコミュニケーションすら取れなかった子供たちが、同じ境遇にいる仲間と一緒に学ぶことには大きな意味があると思う。彼らは学ぶことによって、傷ついた自尊心を回復する足がかりを得ているに違いないのだから。


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